一九四九年の春  上田正昭先生



当時、京都大学文学部の学生であった私が、助教諭の資格で、

三回生のおりに、京都府立の園部高等学校の教師となったのは、

たまたま山陰線の車中で、中学二年生の時に教えていただいた

岡田四郎先生に出会ったのがきっかけである。

「いま、どうしているか」と聞かれて、京大で歴史学を勉強していますと答えたところ、

「それは都合がよい」、教師が足りないので、園高へきて、

歴史の授業を担当してもらえないかということになった。

現在では考えがたい話だが、ほんとうの話である。

「教員免状はまだありません」と申しあげたが、

園高の校長(のちに鴨沂高校校長)であった岡田先生は、

「助教諭」という制度があるからということで、

生徒諸君とはわずか四歳ばかりの年長にすぎない私が、

風呂敷きづつみを抱えて(皮製の鞄を買ったのは、一九五〇年の一二月、

岩波『文学』に執筆した論文で、はじめて原稿料なるものをいただいて

購入した時からである)、週に四日、亀岡から園部へと通勤することになった

(土方鉄さんと出会うようになるのも、この園高時代である)。

この年の教え子(それぞれ第一線で活躍しておられる)が主催する同窓会には、

いまも必ず出席するようにつとめているが、その園部高校で就任問もなしに、

差別事件がおこった。

事件の内容は(その場にいたわけではなく、糺弾の場で真相をうかがった)

聞けば生徒会の会長候補の立会演説会で部落出身生徒の演説中に、

聴衆の生徒が差別のヤジをとばしたという。そのことが判明して、

部落鋺解放委員会(部落解放同盟と改称されたのは、

一九五五年の八月)による園高糺弾闘争が展開された。

教職員の会議が緊急に招集され、解放委員会の人びとが学校の責任を追及した。

岡田先生からは「上田君はまだ学生だから出席しなくてもよいのではないか」

といわれたが、教壇にたってほどないとはいえ、やはり一斑の責任はあると思って、

その末席に列なった。

そのいわゆる糺弾の場で熱弁をふるっておられたのが、若き日の三木一平さんであった。

説得力にみちていたが、ひとりひとりを問責されるその態度がいかにも烈しい。

一九二七年生まれ。
一九五〇年、京都大学文学部卒業。園部高校・鴨沂高校の教員をへて、京大教養部長、

同埋蔵文化財研究センター長などを歴任し、京大名誉教授。

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