当時の春日学校 |
第二次世界大戦も激しくなった昭和18年、春日小学校ではなく、春日国民学校に入学しました。 昭和16年に尋常小学校が国民学校と改称され、昭和22年まで続きました。 要項に従い,毎朝朝礼が行われ講堂での校長先生の訓話は「君たち小国民は、おそれおおくも・・・・ (直立不動)・・・天皇陛下より授かった子供である。愛国心に燃え、忠誠心をもって 国に尽くし陛下のため、お国のためには命を惜しまない国民になっていただきたい」と叩き込まれました。 校庭に奉安殿が造られ、祝日には校長が紫の風呂敷に包まれた「教育勅語」を起立して 頭を垂れて待っている我々がいる講堂まで厳かに運んできて勅語奉読された。 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・・・・」 必ずと云っていい位、貧血で倒れる者がいました。 えのきの大樹の下がスタートの楽しい運動会もありましたが3年生の頃、その運動場にも 防空壕が掘られるようになりました。授業中度々警戒警報が発令され、慌てて帰宅を余儀なくされ 家の前の道路にも防空壕が掘られ警報が発令される度に利用したりして、ろくろく勉強が出来ない状況でした。 20年、4年生になるとB29による東京、大阪の大空襲で本土決戦が叫ばれだし、学童疎開が実施され, 3年生から6年生の児童が府下与謝郡三河内村(現野田川町)に集団疎開をしました。 縁故疎開をするものも多く,1・2年生とわずかに残留した上級生だけが細々と春日校で授業を受けていました。 終戦20年9月になると疎開先から続々と学童が戻ってきました。 食べる物もない時代,校庭はもとより茶山にあった農園へも出かけて行き,さつまいもを作っていたのでした。 日本の復興の兆しの時、昭和23年春、改称なった春日小学校を巣立ちました。 |
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