古典を読む会シリーズ

須磨界隈を歩く


     杉野先生を囲む「古典を読む会」ではこの度、平家物語ゆかりの須磨界隈を歩くことになりました。

     参加者は13名。先生からはいつものように先生お手作りのB5用紙3枚の資料をいただきました。

     
一行は9時43分に山陽電車の須磨寺駅に降り立ちました。 
     9:58 須磨駅の北側に重衡 捕らわれの遺跡に出会いました。

     
         平重衡捕らわれの遺跡
      

     寿永3年2月7日、戦に敗れた平重衡は馬に乗って海辺の船に逃れようとしたが、源範頼の家来庄三

     郎家長の矢に馬を射られて、生け捕りになった。今、碑のあるところにかつては「腰掛の松」といわれ

     る松があった。

     松の根に腰を下ろして無念の涙を流す重衡をみて、村人が濁酒を差し上げたところ、重衡は非常に

     喜び、 
ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ  と詠んだと伝えられている。

                               (須磨 源平紀行から)

     杉野先生は 「平重衡は平清盛の四男で平家の中ではとびきり出来の良い子供でした。人の心     
     を惹き付けるひとでした」 と話された。重衡の不幸は奈良攻略の大将軍に任ぜられたこと。その

     前年の治承4年(1180)10月23日源平の戦いでは小松権亮少将惟盛が富士川で戦わずして

     逃げた。「その惟盛 をかばって重衡は南都を攻めたのです。重衡は1184年一の谷で馬を射られて     
     生け捕りにされ、都大路を引き回しにあい,鎌倉に送り込まれました。頼朝は重衡の人柄に惹かれ、      
     殺すに忍びないと長期間 鎌倉に留めました」と先生が言われた。「重衡には人の心を惹きつける

     何かがあったのでしょうね。頼朝も宗盛への扱いと重衡へのそれとでは違った扱いでした」
 

     重衡は鎌倉から南都へ引かれて行く途中、守護の武士に向かって「日野というところに妻がいます。

     通りがてらに立ち寄って、今一度会いたい」と頼む。

     「いま、一度見たてまつり候はばや」と思うほかは、今生にとりやむることなし。   略    北の

     方泣く泣く袖にとりつきて「しばらく。申すべきことあり。とて袷の小袖に、新しき浄衣を取り添えて

     御姿のいたくしおれて見えさせ給うにこれを召せ」とて着せたてまつり給えば三位の中将これを

     着替えて、もと着給いたるは「形見にご覧ぜよ」とておかれたり(平家物語から)

     その後南都の方へ引かれて行き、木津の河原で殺された。お墓は木津にある。

    
         松風村雨堂   

 在原業平の兄、中納言行平は仁和 2年(886)光孝天皇の怒りにふれ、 須磨の地に配流されて、わび住まいをしていたとき土地の娘を松風・村雨と名付けて愛した。三年後、許されて都に帰る行平は小倉 百人一首で有名な

    
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
          まつとし聞かばいま帰りこむ

 
の歌を残した。姉妹は行平の住居の傍らに庵を結んで行平を偲んだ。これはその庵のあとと伝えられている。なお姉妹の墓は多井畑にある。
  


       須磨寺
     
     
平安初期の仁和2年(886)に光孝天皇の勅命により創建。1100年余の歴史を持つ真言宗

     須磨寺派の総本山。開創以来幾多の天災や戦火にしばしば荒廃したが、その後復興し、一の

     谷合戦で討ち死にした平敦盛の遺品やその他多くの源平の遺物を寺宝として伝えている。

       宝物館   平敦盛が討たれるときまで肌身につけていた[青葉の笛]

      
 弁慶の鐘  一の谷合戦のとき、弁慶が山田安養寺から薙刀の先に掛けて担いできて
     

                  陣鐘の代用にしたという謂れの鐘
     

        源平の庭  一の谷の合戦における平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現している

                             (以上 先生の資料から)

     寿永3年(1184)2月7日早朝、源義経の合図とともに70余騎の軍勢が眼前の断崖絶壁を一気に

     駆け下りた。「一の谷の坂落とし」とよばれるこの作戦により合戦は源氏の大勝利に終わる。しばらく

     して、須磨の浜では熊谷直実がひとりの若武者を討ち取る。平敦盛は笛の名手で、こときわずか

     16歳であった。後に熊谷直実は出家し、敦盛の冥福を祈った。

     敦盛首洗いの池   敦盛の首を洗ったという池        

     義経腰掛の松    一の谷の合戦の後、源義経がこの松に座って敦盛の首と笛を実権した。

     敦盛塚(首塚)    などを訪ねる。
     

     芭蕉の句碑があった。  須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇   

     芭蕉が和歌浦〜大阪〜須磨 明石を旅したときの句であると先生がおっしゃった。

      現光寺

     山号藩架山(ませがきざん)。浄土真宗本願寺派の末寺で1514年釈浄教が開祖。

     門前には「源氏寺」の碑があった。その裏には

     「おはすべき行平の中納言の、藻塩たれつつ わびける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入り

     てあはれにすごげなる山中なり」
と源氏物語 の須磨の巻(須磨の住まいの有様、都の人々へ送る

     節)
の一節が書かれ、さらに小さい文字で

     「光源氏が京より移り住んで、わび住まいしたところと古来語り継がれている。」と彫られていた。

     
     元禄元年(1688)4月20日、平安朝の須磨に憧れ、また源平合戦の古戦場を訪ねる松尾芭蕉
     はこの寺の風月庵に泊まったといわれる。境内には

          見渡せばながむれば見れば須磨の秋        芭蕉
     
     レストラン「花月」で昼食

     昼食後須磨浦公園の三の谷の西国道2号線沿いにある敦盛塚(胴塚)に行った。

     薬仙寺(萱御所の跡)

     清盛が築島の完成を祈願して千人の僧侶に読経させたところという。また清盛の別荘

     「萱の御所」がこのあたりにあり、後白河法皇を幽閉したため「籠(牢)の御所」とも

     いわれた。この御所に高雄の文覚が忍びきたり、源頼朝に平家追討の院宣を賜った

     と伝えられる。境内に「萱の御所跡」の碑が立っている。(先生の資料から)

     花山法皇(968〜1008)の歌碑もあった。

有馬富士ふもとの霧は海に似て波かと聞けば小野の松風    花山法皇


     花山法皇は寵愛する女御の死に心を痛め、蔵人、藤原道兼に勧められて出家する。

     しかし、それは一条天皇を即位させる道兼の陰謀で花山天皇はその陰謀によって一年

     十ケ月で退位する結果になりました と杉野先生が説明された。

        雪見の御所跡

     清盛は福原の地を隠遁の場所に選び、「雪見の御所」とよばれる別荘を営み、晩年は多く

     ここに住んだ。その位置は兵庫区雪御所町と推定され、湊山小学校の校庭に「雪見御所

     旧跡」の碑がある。

     前には小学校の中にあったが、半年ほど前に外に出したという。この辺りは福原の都として

     平家の屋敷がいくつも存在した。京都のように碁盤の目になっていて地名も三条とか祇園がある。

        願成寺

     一の谷の合戦に討ち死にした平通盛と、夫の死を悲しみ海に身を投じた小宰相の墓があった。

          わが恋は細谷川の丸木舟ふみかへされて湿るる袖かな      (平通盛)

     通盛と小宰相の供養塔が仲良く並んで立っている。傍に柿の木があり、たくさんの実がなっていた。

     通盛は1153年に清盛の弟、教盛の長男として生まれる。この通盛の妻は有名な小宰相である。通

     盛はこの小宰相に一目惚れし、三年も文を出し続けて、上西門院(後白河院の妹)の仲立ちによって

     やっと結ばれた。通盛と小宰相との一大ロマンス。因みに小宰相は宮中一の美女だったらしい。通盛

     は1183年鵯越のときに亡くなった。

      越前の三位通盛は近江の国の住人、佐々木の木村源三成綱という者に、七騎が中にとりこめられ      
      て、ついに討たれけり(平家物語から)


     小宰相は夫、通盛の「討ち死にの報」をはじめ信じなかったが一週間もすると夫は本当に死んでしま

     ったと思うようになった。乳母に「私も死にたい」と言う。乳母は必死で止めるが、小宰相はみなが寝

     静まっている間に海に飛び込んでしまう。

     「源平の時代に、戦によって哀しい目にあった人たちが大勢いたのですね。そしてこの小宰相と重衡

     の妻の二人の女性は戦のために哀切きわまりない人たちなのです」と先生がおっしゃった。


                 

   
   清盛塚
     

     弘安9年(1286)建立の十三重塔。昭和に造られた銅像が並んで建っている。ここから海は望めな

     いが、潮の香りは届く。清盛にふさわしい建立地である。「清盛塚」は大正期の移転のとき解体調査

     の結果墳墓ではないことが確認された。実際の墳墓の位置は確認されていない

       琵琶塚

     清盛塚のすぐ南、琵琶の名手 平経正(敦盛の兄)は一の谷の戦に敗れ、明石を指して落ちて行くの

     を城の四郎高家に追われ討たれる。経正の青山の名器をここに埋めたと伝える。

      能福寺

     最澄が建立した寺。境内に「平相国廟」がある。清盛がここで出家して浄海となった。
 
      
 荒田八幡神社

     清盛の異母弟 池大納言頼盛の山荘だった地で、福原遷都後、安徳天皇の行在所となる。安徳天

     皇も祭神に祀られている。(以上青い色の字は先生の資料からです)


     平家物語でおなじみの福原の街を歩きながら、この地を歩いた清盛、や重衡、通盛、敦盛を想いまし

     た。資料としていただいたプリント以外に、先生にお聴きした小宰相や重衡の妻の哀しい物語も忘れ

     られないいい思い出になりました。