古典を読む会の旅行   第17回

京都市内に源氏物語を訪ねる


今年に入って「古典を読む会」では8年間、講義を受けていた「平家物語」が終り、新たに
「源氏物語」がスタートしました。


いづれの御時にか、女御あまたさぶらいたまひけるなかに・・・

から始まって、今は夕顔のところを習っている。

4月16日の「古典を読む会」で杉野先生から下記のプリントを頂いた。今年の春の一日旅行である。

 

           
              

 期   日  平成24年5月7日(月)
 集合場所  JR京都駅 京都市バス B1乗り場
 集合時間  午前10時

 行  先   風俗博物館  よみがえる源氏物語の世界展
                  京都市下京区花屋町通り堀川東入ル
                  井筒法衣店5F

         「夕顔の墳」の石碑
         盧山寺     紫式部の邸宅址

 昼  食   がんこ     高瀬川二条苑
                  京都市中京区木屋町通り二条下ル

 解  散   午後4時頃


                         

 参加メンバーは 杉野先生、以下14名。いつものように先生が今日訪ねる場所の資料を配ってくださる。

当日は快晴で、ときちゃんがお腹痛くて、突如欠席になった他は、皆、元気に集まった。

西本願寺前で、バスを降り、井筒屋法衣展ビルの5階の風俗博物館に入った。小さなエレベーター

から出ると、お香にいい匂いがした。

六条院

六条院は源氏34歳の秋に着工。翌年8月に完成、以後源氏が亡くなるまでの物語の主舞台となる大邸宅
六条京極辺り四街を占めていたといわれ、壮大な屋敷であった。邸内は4部に区切られ、それぞれ四季の
景物が配された。その敷地をほぼ4等分した各町に春夏秋冬の四季にふさわしい情趣の庭園と屋舎を造り、

それぞれに、その四季ゆかりのある女性が住んだ。

辰巳(東西)の町には源氏と紫の上が住んだ。春が好きな紫の上にふさわしい趣向で、前栽に、五葉松
紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじなど、春を彩る草木が植えられた。

未申(西南)の町は、もと、この地が秋を好む中宮(冷泉帝の中宮)の母、六条御息所の居宅であったので、中
宮の里邸とし、紅葉する木々を植え、秋の庭を営んだ


丑寅(東北)の町には、花散る里(桐壷院の女御 麗景殿の妹)が住まいして、呉竹、撫子(常夏)、卯の
花、菖蒲など涼やかに植えて夏の庭を造った。

戌亥(西北)の町には明石の君が菊のほかに松、楢、櫟、深山木などを木深く植栽して、冬の庭を造った。


春、夏、秋の庭にはそれぞれ池が設けられ、たびたび舟遊びが催された。このような四季の織りなす六条院
の栄華は、光源氏と4人の女性、、そして多くの女房たちによって保持されていた。(以上 杉野先生の資料から)


風俗博物館では、先生が前に書いておられるように平安中期、源氏が住んでいたといわれる「六条院の生活」と題し
て、源氏物語のさまざまなシーンを選び、人形などを使って具現化されている。平安時代の服飾の流れがわかるよう
に展示されていた。


夕顔の墳

下京区堺町通り高辻下ル(夕顔町)にある「夕顔の墳」の石碑を見る。夕顔の花はまだ、咲いていなかったけれど
「夏になれば、この辺に夕顔の花がいっぱい咲いて、見に来るひとも多いのですよ」と向かいに住んでられるご婦
人が言われた。大阪からこの碑を見に来た と言うと「まあ、遠いところを・・・」と夕顔が身内のように喜ばれた。


夕顔は源氏の愛人の一人。六条御息所の生霊である怪物にとりつかれ、19歳の若さで急逝してしまった。そのようなはか
ない女性を憐れんでか、京都の人は架空の物語の人物を町名に残している。
「夕顔町」という地名が実在する。その夕顔
町に夕顔の宿の想定地があり、江戸時代に夕顔を悼んだ人が宝篋印塔を造り、以来守り続けているという。今は個人宅
の中庭なので、自由に拝観できないが、この家の柵の中に「夕顔の墳」という石碑が建っている。この家の辺りが夕顔の
宿の推定値といわれている。(先生の資料から)


夕顔はこの辺りで源氏に見そめられ、八月十五日の満月の夜,源氏が訊ねたときに、急逝した。

ランチは木屋町通り二条にある「がんこ」で。入口には薄紫色のてっせんの花が咲いていた。400年前に、豪商 門倉了以によって造られた
別邸跡で、その後 山縣有朋の別邸「第二無鄰菴」となったこともある。お店の売りは立派な庭園で、大きな庭石やお化け灯篭があった。


バス停「荒神口」で下車。寺町通りを歩いて、梨の木神社の前を通過して、上京区寺町通り広小路上るにある盧山寺に着いた。

廬山寺は白砂に州浜型の苔と苔の中に紫の桔梗が有名であるが、花はまだ咲いていなかった。

ここは紫式部の曽祖父 堤中納言 藤原兼輔の邸宅のあったところである。兼輔はすぐれた文人として醍醐天皇の信任が厚か
ったので邸宅も立派なものだったと考えられる。父の為時も文章博士であり、学問、文芸に精通していた。父もこの邸宅に住ん
でいたので、紫式部はここで生まれ育ったと思われる。堂内には絵巻物や貝合わせなど式部に関するものが展示されている。紫
式部にちなんで「源氏の庭」が昭和40年に本堂南に造られた。境内には「紫式部邸宅址」の記念碑も建っている。白砂に州浜形
の苔と、苔の中に紫の桔梗が植えられていて、往時を偲ばせ、風情をかもしだしている。(先生の資料から)


「源氏物語54帖を彩る華麗な屏風展」が開催されていた。屏風画は岡田俊一画伯(院展院友)の絵で、岡田画伯は1945年生まれのまだ
若い画家で、父岡田春水に屏風画の手ほどきを受けたとあった。とても優雅な絵だった。

玄関前に「源氏物語ゆかりの地説明板」があって、ここを紫式部の邸宅があった場所と角田文衛博士が特定した。(紫式部ーその生涯と遺薫から)
説明板の隣に紫式部 大弐三位の歌碑があった。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影(紫式部)

有馬山みなの笹原風ふけば いでそよひとを忘れやはする(大弐三位)


上記のの歌が日比野光鳳の字で刻まれていた。二首とも百人一首におさめられている。

廬山寺を出たところで解散となった。