古典を読む会
大津に平家物語をたずねる

 あわせて芭蕉の足跡をみる

  
  杉野先生の「古典を読む会」ではこの度、大津をたずねることになりました。今井兼平の墓、

  義仲寺など先生御制作の資料を片手に仲間11名と「平家物語をたずねる旅」に出ました。



 
10時13分にJR 石山駅で皆、集まった。

駅から200mくらい歩いて、工場地帯をぬう小川のほとりに「今井四郎兼平の墓」はあった。

今井四郎兼平(1152〜1184)といえば「平家物語 巻九 第83句」に登場する。木曽義仲と

は乳兄弟であり、義仲四天王の一人。いつも旅の初めに頂く先生の資料に

今井兼平

木曽義仲は倶梨伽羅峠の戦の後、圧倒的な強さで平家軍を破って京に入り、

寿永2年(1183)7月平家一門は都落ちする。しかし入京した義仲はわずか

半年の在京で、滋賀県大津市の琵琶湖畔の粟津で最期を遂げる。「一所」の

討ち死にを願う義仲に乳母子の今井兼平は自害を諭す。義仲の死を確認するや

兼平は太刀を口に含み、馬から真っ逆さまに落ちて自害し果てた。その兼平の

墓はJR石山駅のホームから雑木に埋もれて見える。この辺り、兼平最期の地

といわれる。以前は田んぼの中にあったが、今は古戦場を偲ぶよすがもない。

墓は徳川期に今井家の子孫が建てたという。(先生の資料から)


墓地には謡曲 「兼平」 の解説板がたてられていた。



「今井兼平は勇敢な人やねえ」と寺本さんが感心していった。「いや自害はいけません」

と井口さん。



石山駅から京阪電車で膳所駅まで。義仲寺に着いた。

義仲寺は三井寺の末寺である。墓は愛妾 巴が義仲戦死の数年後に建てたという

言い伝えがある。その後長く忘れられたままだったのが、天文年間(1532〜1555)

近江国司 佐々木高頼が石山寺詣の途中、墓が畑の中にポツネンと立っているのを見て

「源家大将軍の墓、守る者なくんばあるべからず」と嘆き、菩提を弔うため一寺を建てた。

それが義仲寺であるという。またの伝えでは、はじめ、ある僧が塚のそばに庵をむすび

「義仲庵」と称したのが、後に義仲寺となったともいう。真偽のほどは分らない。

(先生の資料から)



中に入ると芭蕉の鮮やかな緑が目に入った。花も咲いている。6・7年に一度花が咲くとか・・

くたびれて 宿かるころや藤の花   (芭蕉)

の句が貼ってあった。




俳聖 松尾芭蕉はこの芭蕉の木を好んで、自らの名も「芭蕉」とした。杉野先生は

「芭蕉の葉っぱは風に吹かれても破れる儚さがあるでしょう。芭蕉翁にはこの儚さが

ぐっときたのでしょうね」と言われた。



義仲の墓、巴の墓、山吹の墓があった。

木曽殿は、信濃より巴、款冬(やまぶき)とて二人の美女を具せられたり。

款冬は労わることありて、都にとどまりぬ。巴は七騎がうちまでも討たれざり

けり。(平家物語 巻九 第83句)


巴の墓

巴は義仲が信濃から連れてきた女性。色白の美女で力強く、粟津の戦では最後の7騎

になるまで女武者ぶりを発揮した。義仲と巴の二人の墓ははじめ離れ離れだったのを、

巴の出身地長野県の有志が地元から自然石を運んできて、ここに巴塚を作った。没後

900年経った昭和47年5月義仲寺境内に並ぶことになった。



山吹の墓

山吹も巴とともに義仲が連れてきた女性だが、病弱のため京都に残り、粟津の戦には出て

いない。塚はもと大津駅前にあったが、駅の拡張工事のために取り払われ、義仲寺に移さ

れた。巴にしてみれば折角義仲のそばで安らかに眠っているところへ、邪魔が入ったという

ところか。境内入り口近くに山吹塚、その奥に義仲の宝篋院塔が巴塚と並んで立つという

格好である。(以上 先生の資料から)


「山吹は義仲の妻とも妾とも違う。病弱のため京にありましたが義仲に会おうと大津まで

きました。義仲戦死の報を聞き、悲嘆のために自害しました。」と先生が説明してくださる。

ちなみに巴は信州木曽で90歳の生涯を閉じた、と石原さんが教えてくれた。

松尾芭蕉の墓

義仲寺で有名なものに、もうひとつの松尾芭蕉の墓がある。
芭蕉は近江をこよなく愛し、貞享元年(1684)の大津訪問以来、計10回、この地を訪れており、大津で詠んだ句は89句に及んでいる。

義仲の眠るこの寺の草庵、「無名庵」に滞在したこともあり、
元禄4年(1691)8月15日には同庵で門弟たちと観月の宴を催している。

元禄7年、大阪で客死するが、死の直前の
「骸(から)は木曽塚に送るべし」という遺言通り芭蕉の遺体は多くの門人たちにより、淀川の川舟で運ばれ、義仲寺に手厚く葬られた。

大津は生涯を旅に生きた芭蕉が自らの意志で選んだ故郷である。

義仲の墓に並んで、内藤丈艸の筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた墓石がある。また伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の

           木曽殿と背中合わせの寒さかな

      芭蕉の 
行く春を近江の人と惜しみける

他19基の句碑が狭い境内にぎっしり立っている。(先生の資料から)


翁堂の中は薄暗い。若冲の天井画は只今修理中で取り外されていた。正面祭壇には芭蕉翁

坐像、左右に丈艸居士、去来の木像。壁には36俳人の画像が架かっていた。先生の下さっ

た資料にもあるように芭蕉は木曽義仲に限りない愛情を抱いた。芭蕉は義仲の山家育ちの

不器用さと不運、それに都の公家衆が垣間見せる権力保持の陰謀などを感じ、そんな義仲を

こよなく愛した、とか。わたしも今まで、義仲がただの乱暴者としか思っていたが、平家

物語を読んで、繊細なところもあり、頭もいいところもあるので、認識を改めた。

 池には石のような亀が甲羅干しをしているし、蛙も鳴いて俳句を作る人には最高  のシチュエ

ーションである。

俳句を作っているグループの人たちがいて、その中のひとりが「亀の季語はいつですか?」

と聞いてこられた。私に聞かれてもね。

昼食後琵琶湖畔の遊歩道(なぎさのプロムナード)を歩く。左手には琵琶湖が広がり、

右手に芝桜のピンクの花。




長等公園の「忠度の歌碑」に向かう。途中まで、2台のタクシーに分乗した。

タクシーを降りて、心地よい風を受けながら木立の中を登って行く。小鳥の囀りが聞こえ

濃淡の緑がきれい。木々に囲まれて、薩摩守忠度の歌碑が寂しく建っていた。


長等公園あたりは桜の木が多く、平忠度が桜を詠んだ歌碑が公園に建っている。

さざなみや志賀の都は荒れにしお昔ながらの山桜かな(千載和歌集)

(先生の資料から)



「前に来たときはここからもっと湖がきれいに見えたのよ。周りの木が大きくなりすぎたのね」

と先生は残念そう。帰りのタクシーの中で鍛冶さんは運転手さんに、

「忠度の歌碑から琵琶湖が見えるように、もっと木を伐って手入れしてほしいと

嘉田知事に言っておいてくださいね」と頼んでいた。


忠度のこの歌が千載和歌集に載るいきさつを書いてあるのは「平家物語」 巻7 68句。

薩摩守忠度はいづくより引きかえさりけん。侍五騎具して、五条の三位俊成の卿の

宿所にうち寄りて見給はば、門戸閉ざして開かず。門をたたけども開けぬ間

「これは薩摩守忠度と申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候いて、

道より帰り上りて候ふなり。・・中略・・世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんず

らん。そのうちに一首ご恩をかうむり、草のかげまでも「うれし」と存じ候はばや・・」

とて鎧の引き合わせより巻物一つ取り出し俊成の卿にたてまつる。(以上原文より)



世もしづまってから千載集勅撰があった。その中に忠度の歌が一首入れられた。

勅勘の人なので、「故郷の花」という題名で「詠み人知らず」として発表された。その歌が

「さざ波や志賀の都はあれにしお昔ながらのやまざくらかな 」  

ここのところは「平家物語」の中でもクライマックスである。



爽やかな緑鮮やかな季節に、今井兼平や義仲、巴、山吹、薩摩守忠度の物語

に想いをはせながら、仲間と歩くのは、この上なく楽しいことでした。