古典の旅シリーズ
「古典を読む会」 では今回(2009年秋) 大阪を訪ねて歩くことになりました。杉野先生は
2ヶ月も前から資料を集めて原稿を書いてくださった。
2009年10月26日(月)に 福島 逆櫓の松址や八軒家、芭蕉終焉の地、伝藤原家隆の墓、
四天王寺などを廻る予定。
当日、JR 福島駅に午前10時に集合した。今日は生憎の雨。大阪市福島区福島2丁目2−
2ドミール堂島というマンションの前に逆櫓の松址の碑があった。以下先生の解説は青い文
字で表示する。
逆櫓の松址の碑
平家物語中「源義経逆櫓」伝承地。
元暦2年1月10日、源義経は後白河法皇の御所に参上して平家追討の決意を表明する。
2月16日、渡辺から屋島へ押し寄せよとするが大暴風雨となる。
義経と梶原景時は、船に逆櫓を付けるべきや否やで激論。義経は夜半、5隻の船で船出を
決行し、17日早朝、渡航に成功する。有名なこのときの二人の論争が此の地の老松の下で
行われた、という伝承がある。今、碑が建つ。
今、この場所に喫茶店もあり、「逆櫓」というあんまきがあった。
野田藤
10:32福島4丁目にある下福島公園に行った。雨が降っているので公園には人気もない。
広い公園内には藤棚がいくつもあった。花の季節になれば見事だと思う。
いにしえのゆかりを今も |
京阪中ノ島駅から天満橋まで。天満橋駅前の永田屋昆布店の軒先に「八軒家船着き場址」
の標石があった。
ここが八軒家といわれたのは江戸時代になってからで、ここ船着場辺りに8軒の船宿があっ
たことに由来するという。三十石船が伏見との間を往来し、その所要時間は上り12時間、下
りは伏見を夜出発すると翌朝 当地に着くというものであった。
平安時代には「渡辺の津」と呼ばれた。渡辺とは向こうへ渡す、渡し場の意味である。
渡辺の他に窪津(くぼつ)という名も伝わっていて、熊野九十九王子(王子=熊野へ参詣の
途中、所々に若王子を勧請して祀ってあるところ)の第一王子「窪津(渡辺)王子」がこのあ
たりにあったと考えられている。熊野詣での最初の上陸地として賑わったところである。
後の文覚上人、遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのも、架け替えられた渡辺橋(今の天満橋
あたり)の渡り初めの折であったと伝えられている。八軒家の西、高倉筋 入り口の階段は
このあたりで唯一江戸時代のままのものである。更に西のお祓い筋には「熊野かいどう」の
碑がある。渡辺から生玉、天王寺を経て住吉まで続く上町台地の西側の海岸線を万葉の時
代には「大江の岸」と称していた。
OMMビル21階の「楽待庵」でランチ。
天満橋から地下鉄谷町線 谷町4丁目で乗り換え中央線本町で下車。松尾芭蕉終焉の地
に行く。
松尾芭蕉終焉の地
元禄7年9月8日、松尾芭蕉は大阪の門人たちの懇望黙しがたく、故郷 伊賀上野を発ち、
大阪に向かった。その頃はすでに健康はすぐれず、着いた翌日発病したが、病を押して俳
席を勤めている。。病はいったん落ち着きを見せたが、29日再発。10月5日、南御堂の前
の花屋仁左衛門の離れに病臥の身となる。8日夜 「病中吟」として
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(笈日記)の句を門人にしたためさせた。
12日申の刻に永眠。51歳であった。遺言により、その夜、舟で淀川に上り、近江の義仲寺
に運ばれ、子の刻にその境内に葬られた。
今、南御堂の前、御堂筋東側の緑地帯の銀杏の木の下に「此の付近 芭蕉翁終焉ノ地と伝ウ」(昭和九年 |
南御堂別院の中に直原玉青画伯の描いた「芭蕉の夢」が掛かっていた。
芭蕉翁が臨終の床にあって、弟子が周りを囲んでいる絵で、芭蕉の残した俳句があった。
中央線本町駅から谷町線に乗り継ぎ「四天王寺駅夕陽丘」まで。藤原家隆の墓を目指す。
伝 藤原家隆墓
「家隆塚」として親しまれている。藤原家隆(1158〜1239)は新古今和歌集選者のひと
り で藤原定家と並び称される鎌倉初期の歌人。
嘉禎(かてい)2年、この地に夕陽庵(せきようあん)をむすび、日想観(後出)を修め、翌
年4月、正座合掌しながら往生した。
付近の地名「夕陽丘」は家隆の庵の名に由来するといわれている。地下鉄駅すぐ北の道を
西に曲がり、突き当たったところ、小高い丘に墓がある。
ちぎりあれば難波の里にやどりきて波の入日を拝みつるかな(家隆難波七首の一)
風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける(従ニ位家隆百人一首)
小高い丘の上に家隆のお墓はあった。丘からは通天閣も見えた。露草の花が雨上がりにひ
っそりと咲いていた。家隆がここから西を見ると夕陽が素晴らしいものだったのだろう・・
四天王寺
四天王寺は推古天皇元年、聖徳太子によって創建されたわが国最古の官寺で飛鳥時代の
代表的な寺院である。有名であるので伽藍、その他一般的なことはここでは省く。
西門の前の石の鳥居
高さ約9m。永仁2年建立の寺内最古のもので「釈迦如来転法輪処 当極楽土 東門中心」
(極楽浄土の東門に当たる)と書かれた扁額が掲げられている。
平安時代から、浄土の東門に当たるここ、寺の西門から西の海に沈む夕陽を拝しながら念
仏すると極楽浄土に行けるのだ、という「西門信仰」が盛んになった。慈鎮・法然上人・後白
河法皇・藤原家隆らが参詣したのも日想観を修するためであったし、また一般の参詣人も同
じ想いでここに来たりで、とにかく賑わったところである。
( 日想観=西に没する太陽を観察して西方の極楽浄土を思い浮かべる修行)
熊野権現礼拝石
熊野への道、庚申街道に向かう南大門の近くにある。
先生は天王寺に関連して、次のように書いておられる。
能の曲目のひとつに「弱法師」(よろぼし)というのがある。詞の中に「さすが名に負うこの寺
の仏法最初の天王寺の石の鳥居此処なれや」という一節がある。人の讒言を信じた父によ
って家を追われた青年が、盲目となり、逆境の中、仏を賛嘆し、日想観を修行して、今は悟
りの境地にある。彼岸に功徳のため天王寺に来ていた父は、その盲目の青年を見るうち、
わが子と気づき、わびて、河内の高安の家に連れて帰る、という筋であるが、不幸な青年を
扱っていながら悲惨さはなく、むしろ香り高い曲である。
天王寺駅に向かって歩いていくと名水「清水の井」があってわたしたちはのどを潤した。
「清水の井」はかつての熊野街道の名水のひとつであったそうだ。
われわれは天王寺駅で解散した。