古典文学を読む会

大原寂光院を訪ねて

 古典文学を読む会」で、杉野先生の講義を受けていた「平家物語」が今年6月に「かくして平家の一門、
絶え
にけり」で終わりました。本当に魅力のある長編でした。
平家物語の最後を飾る「灌頂の巻」の中 後白河法皇が大原に隠棲する建礼門院を見舞う場面を描いた「119句 
大原御幸」は平家物語のクライマックスで印象深い。

 平清盛の娘として生まれ、後白河法皇の皇子である高倉上皇と結婚し、安徳天皇を生んだ建礼門院徳子が36歳で亡くなる
まで居られた大原「寂光院」を、私たちは この度訪ねることになったのである。
参加者は 先生と私たち生徒の12名。平成23年9月26日〜27日 一泊二日の旅である。

平成23年9月26日(月曜日) 晴れ

 京都地下鉄 国際会館に11時集合。参加者は12名。駅には今日宿泊予定の「魚山園」のバスがきてくれた。
窓外の景色はのどかな 山里の秋の景色。
11:20 バスは魚山園の前に着いた。土産物屋や食事処が軒をつらねている。
蕎麦処「芹生」で昼食。まず、来迎院を訪ねる。

来迎院

 天台宗の古刹。伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師(794〜864)が声明の修練道場として開山した。
来迎院を建立した聖応大師良忍の絵伝を見た。
それによると融通念仏の祖、良忍上人は尾張富田の人で13歳で比叡山に出家。天仁2年(1109)38歳で
来迎院を建て住持となり、毎日法華経を読誦し、念仏六万遍を唱え、滝に向かって声明を唱えたた。
滝の音と声明の声が和して滝の音が聴こえなくなったという。

 三千院の南側を流れる川は呂川といい、北側には律川が流れている。
この二本の川の名は声明の呂(呂旋法)と律(律旋法)で唱誦するとき、うまく呂と律の使い分けをできないことを
「呂律が回らない」という。
同行した仲間で音楽の先生をしていたM さんは「呂律」は二本の音楽の音階よ」と言って後日、詳しく調べてくれた。

  律旋法
 日本の雅学・声明の七音音階のひとつ。
下から宮(きゅう)・商(しょう)・嬰商(えいしょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)・嬰羽(えいう)
      洋楽のレミファソラシド

  呂旋法
 下から宮・商・呂角(りょかく)・律角(りつかく)・徴(ち)・羽(う)・律嬰羽(りつえいう)  洋楽のソラシドレミファ

  陽音階(陽旋法)
 日本の五音音階のうち1オクターブ内に半音を全く含まないもの。    レミソラドレ

  陰音階(陰旋法)
 日本の五音音階のうち1オクターブ内に二か所に半音階を含むもの。 ミファラシレミ   ミドシラファミ

 拝観受付から石段を登ったところに鐘楼があった。鐘をつくのは一回100円と書いてある。


本堂には中央に 木像薬師如来坐像、右側に釈迦如来坐像、左側には阿弥陀如来坐像の三尊で、いずれも平安時代の作。
ふっくらしたお顔である。
背後に慈覚大師坐像と聖応大師坐像と元三大師坐像があった。


三千院

 本尊は伝教大師作と伝えられる秘仏 薬師瑠璃光如来。東の間は玉座を設え、襖には下村観山筆の虹の絵があった。

往生極楽院

阿弥陀三尊像(国宝)を納める工夫として、天井を船底型におりあげている。中央に阿弥陀如来像、右側は観世音菩薩、
左側は勢至菩薩で両菩薩は少し前屈みに跪く「大和坐り」であった。大和坐りという言葉は初めて聞いたが、慈悲に満ちた
お姿だという

 本堂より眺める庭園は池泉観賞式庭園で江戸時代の修築とか・・萩の花が咲いていた。


円融蔵

重要文化財収蔵施設で展示室があった。数々の名宝に対面することができた。救世観音半跏像や木像不動明王にお目に
かかった。鈴木百年の長男で鈴木松年(1840〜1918)の入魂の作品は松籠謄空図で12面10m以上の長大な画面を余す
ところなく使い切った作品で、「行者の念力で松が龍に化ける」と説明があった。すごい迫力だった。

 
  
三千院の門前にある民芸料理旅館「魚山園」にチェックインする。私のお部屋は「呂川の間」であった。
 お風呂から出ると全員、先生のお部屋(律川の間)に集まり、楽しい話し合いの場を持った。テーマは
 寂光院で平家一門の菩提を弔う日々を過ごされた建礼門院についてである。

 文治2年(1186) 大原寂光院に閑居された建礼門院のもとを後白河法皇が訪問される。

 法皇は女院の大原の閑居のお住まいをご覧ぜまほしくおぼしめされけれども・・・・
賀茂の祭りのころにぞおぼしめし立たせ給いける。
(平家物語 灌頂の巻 第119句 大原御幸より)


 
法皇は八葉の御車を召し、花山の院、徳大寺などをお供に忍びの御幸であった。
お迎えした尼は法皇の御存じの筈の阿波の内侍であったが、思い出してもらえぬほどのかわりようだった。
 はじめは逢うことを拒んでいた女院は阿波の内侍にせっとくされ、泣く泣く法皇と対面される。

 互いに御涙にむせばせたまいて、しばしは仰せ出ださるることもなし。(119句より)

 女院は平清盛の娘として、また天皇の后として権勢をふるったが、壇ノ浦で子供(安徳天皇)を失い、自らも入水するが助けら
れて出家するまでのことを、天上から地獄までが流転する六道輪廻に例えて涙ながらに語る。


 先生は「後白河法皇は源氏に遠慮して、鞍馬寺参拝と見せかけるため、鞍馬街道へ入り、
江文峠を通って大原草生までこられたの」 と説明される。
 「どうして法皇はそこまでして建礼門院を御忍びで訪ねたんでしょう?  前から疑問やった」という人。
 「建礼門院は美しかった」
 「法皇は舅なのに・・男心・・?」「女院がどんなにおやつれになっていられるかが見たかった」
 「再会後、法皇はどのような思いで大原を去ったんでしょう・・」と口々にいろいろな意見が出て、盛り上がる。

9月27日(火曜日) 晴れ

 

 魚山園のバスで寂光院に向かう。国道367号線から40号線をはしる。のどかな田園風景。
 江文峠の指標のあるところから寂光院めでまで0・7kmと書いてある。
彼岸花やコスモスの花がいっぱい咲いてて、この季節 にきてよかったと思う。

                       

   落合の滝

  傍らに建礼門院の詠んだ歌が書かれた看板があった。  ころころと小石流るる谷川の河鹿なくなる落合の滝

 建礼門院がまつってある大原西陵にきた。かつての中宮としての立場をふまえたような立派な御陵であった。

 寂光院

 
 本堂前の西側の庭園は「平家物語」のままで心字池、千年の姫小松、苔むした石、汀の桜などがあった。
この姫小松は平家物語 灌頂の巻の大原御幸に
 「池のうきくさ浪にただよい、錦をさらすかとあやまたる。中嶋の松にかかれる藤なみの紫にさける色」

の松として伝わるもので、文治2年(1186)の春、翆黛山から花を摘み帰った建礼門院が後白河法皇と対面するところに登場する。

一緒に花を摘み帰った大納言の典侍の局や最初に法皇の応対に出た阿波の内侍のお墓は庵の左手の山の上にあった。
随分山の上で、石段には手すりが付いていなかったので登るのはやめにした。
トミ子さんと私以外はみんな登って行かれた。後日、先生にお聞きしたところ、階段は53段あったそうだ。
登れなかったわたしに、先生が下さったメモには

  上には宝篋院塔が一基。それを中心に、より小さな五輪塔が4基並んでいた。

       墓 前列  阿波内侍、大納言佐局、冶部卿局、右京太夫
          後列  小侍従の局

  と書かれてあった。

朧の清水

「平家物語」の世界を残す寂光院を後に三千院までウオーク。
お天気に恵まれすぎて暑いくらい。のどかな山里の風景を眺めながらゆっくりあるくのは素晴らしい。
道の左わき、灌木の下にひっそりと小さな泉があった。
建礼門院が寂光院に向かう途中、この清水の辺りで日が暮れて、
月明かりによって映るご自身のお姿を見られた と伝えられている。

14:00 魚山園のバスで地下鉄「国際会館駅」まで送ってもらった。ここで解散となる。

「平家物語」の世界にどっぷり浸かった二日間。この上なく充実した楽しい旅であった。
帰ってから先生に「ありがとうございました。お疲れはありませんか?」とメールでお尋ねしたところ

「幸せいっぱいの旅でした。
つい高齢の身を省みず動き回り、果ては阿波内侍さんたちのお墓にまでご挨拶できまして、とても満足しています。
なんといっても心通う仲間と一緒に動くのは味が格別ですね。」


という返信を下さった。先生からまた「元気を」をいただいた気がした。
トミコさんからいただいたメールには

「平家物語」を読み終わった春から、今秋は必ず大原寂光院に行きたいと思っていました。
私たちの大原御幸ができてうれしかったです。
「悲哀」の精神は平家物語を貫くものであるという先生の締めくくりのお話どおり。
石段に腰掛けて、木々に囲まれた空気の中で局たちを想った、あの時間の流れは至福のものでした。

とあった。私も平家物語を貫いている「悲哀」について思い出したことがある。
平家物語の中の感情を表す言葉で多いもの  「あはれ」168回、 「悲し」132回、 「無慚」20回 等々・・・で
「諸行は無常であり盛者は必衰である」と観ずる作者のこころを教えていただいた。