源氏物語の石山寺
5月のある日、私たち「古典を読む会」グループは、源氏物語ゆかりの石山寺に行くことになりました。
幹事のMさんが予定表や先生の用意してくださった資料を皆に配って、説明してくださった。
10:00大阪駅発、長浜行の新快速に乗車。先生が今日はご欠席で寂しい。10:40 石山駅で下車。他のレギュラーメンバー12名は
全員そろった。京阪バス石山門前駅で下車。瀬田川が見えた。「至誠庵」という鮒ずしを売っているお店の前で三鈷の松があった。立て札には
「弘法大師空海上人が弘仁2年(811)御年42歳の厄年に石山寺に来られた。以後、大師ゆかりの松と伝承された。」
とあった。松の葉は二本が普通であるが、この三鈷の松は三鈷の先のように、葉先が三本に別れている。長さは5p〜7p
で、この三本を念じながら三つ編みすると夢が実現するとか
洗心寮でいただいたお食事は種類も豊富で、シジミごはんが美味しかった。
石山寺
「石山寺」と書かれた大提灯が左右の門柱に下がった東大門がそびえている。運慶と湛慶の作といわれる仁王様。
参道の両脇が美しい緑。目に沁みるほどである。
拾翆園の庭の中にある「淳浄館」で 「54歩で読む源氏物語」を観た。『源氏物語』は光源氏を主人公として、「桐壷
の巻」に始まり「夢の浮橋の巻」に至る五十四帖の長い物語を五十四歩で観て廻るのだ。
本堂の内陣で、石山寺のお話を聴いた。お厨子の中に、丈六のご本尊がいらっしゃる。秘仏で、2016年にご開帳があるそうだ。
如意輪観音の半跏像や蔵王権現の金堂の掛け仏、」増長天、比金門天,持国天、蔵王立像神木など重要文化財を観て廻った。
境内の本堂(国宝)は巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられている。この本堂内にある「源氏の間」はかつて紫式部がその
窓から十五夜の月を眺めたとき、霊感を受け『源氏物語』の構想を得たと伝えられている。その「源氏の間」には十二単を着た
人形が机に向かって執筆している姿が見えた。
古典にあらわれた石山寺
先生に頂いた「古典にあらわれた石山寺」を読むと、石山寺にぐっと興味がわく。石山寺は観音菩薩の聖地とされ、平安時代に観音
信仰が盛んになると、都の女性たちが多く出かけて行った。「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「更級日記」などには、それぞれ石山詣での
体験が描かれている。
道綱の母
「蜻蛉日記」の作者、道綱の母は藤原倫寧の女に生まれ、兼家と結婚した。自分をかげろうにたとえて
「あるかなきかの心地するかげろうにき(日記)というべし」と自ら命名している。
夫 藤原兼家の愛に不安を感じ、陰暦7月半ば過ぎ、石山寺に向かう。平安時代の貴女が物詣でに出ることは、
唯一の気晴らしであったのか・・・・。「蜻蛉日記」ではこの時の体験をまとめて風景や事跡も含めて描いている。
夜が明け染めたとおもう時分に京の家を出、山科で夜がすっかり明けて、走井で食事、逢坂山を越え
打出の浜(大津)に着いたところで、舟に乗り寺に着いたのは申の刻(午後5時ごろ)で、13時間くらいかかっている。
「蜻蛉日記」の中には石山寺に入ってからの、参籠の様子が書き込まれている。内からのあたり
の景色もこまやかに描写されているが、現在の本堂からの眺めとほとんど変わっていない。
道綱の母は、この時35歳頃で天禄元年(970)の夏であった。
それから34年後の寛弘元年(1004) 8月、大命を拝した紫式部が参籠して「源氏物語」を練り、ここで書き
始めたという伝説がある。紫式部は自分より
34年前に、すでにすばらしい日記文学を書き残した道綱の母の天才にあやかろうとしたのではないか
芭蕉
「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ・・」で始まる「幻住庵記」は松尾芭蕉のここでの生活から生まれた。「おくの細道」の旅の
翌年,元禄3年(1690)4月6日から7月23日までの約4か月間、芭蕉は近江の門人で、膳所藩士、菅沼外記定常(曲水)の勧めによって
曲水の伯父(幻住老人)が、かつて暮らしていた庵に住まいした。ここでの生活の様子や、それまで辿ってきた芭蕉の俳諧道への心境など
をのべたのが「幻住庵記」であり、「おくの細道」と並ぶ俳文の傑作とされており、結びにおかれている
まず頼む椎の木もあり夏木立
の句に詠まれた往時を偲ぶように、現在も椎の木があった。
島崎藤村
島崎藤村が明治26年2月、20歳のとき、石山寺に詣でて一冊の本を奉納した。当時の「文学界」2月号に、そのときの文章を載せている。
「石山へハムレットを納るの辞」というので、その末尾には
湖にうかぶ詩神よ 心あらば
落ち行く鐘のこなたに聴けや
千年の冬毎に石山の寺よりひびく読経の声
という詩で始められている。
多情多感な青春の藤村は、石山寺の環境が大いに気に入ったとみえ、またそれから3か月ほど後にやってきて、五月の石山寺の門前の茶所
に住みつき「茶丈記」を残している。
「石山寺」といふは名にしおふものさびたる古刹にして かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を関して 今はその名のみをとど
めたる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかわしきに ちとせのむかし式部が桐壷の筆のはじめ大雅の心を名月に
浮かべたる源氏の間には僅かにそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりを
たたき塵をおとして湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す