トマス=エドワード=ロレンスはウェールズの名門の生まれで、オクスフォード大学で考古学を学ぶ青年だった。
第1次世界大戦が始まって2年目の1916年、ロレンスはカイロの英陸軍司令部に勤務していた。
アラビアの情勢に詳しく、トルコの圧政に苦しむアラビアに深く同情していたロレンスを、
イギリス軍事情報部はドイツとトルコの同盟にくさびを打ち込む人物として、アラビアに派遣した。

彼は反乱軍の指導者、フセインの次男ファイサル王子(アレック=ギネス)の陣営に加わった。
また、ハリト族の族長アリ=イブン=エル=カリッシュ(オマー=シャリフ)と出会い、ともにアラブ民族独立のために戦うことを誓う。
しかし、近代的なトルコ軍の前になすすべのない反乱軍の無力さにロレンスは大きく失望する。
そして、難攻不落といわれたトルコの要塞
アカバを攻撃する計画を立てる。アカバの防衛の主力は海に向けられていたが、背後は無防備に近かったのである。
ところが、その前には越えることが不可能と言われるネフド砂漠が広がっている。
アリはこの無謀とも見える作戦に驚くが、ロレンスの戦略家としての才知と意志力に敬服し、ついに進撃を開始する。

乏しい水、灼熱の太陽と戦いながら、50人のラクダの隊列はアカバを目指した。途中、ハウェイタット族の族長アウダ=アブ=タイ(アンソニー=クイン)とも合流し、
1917年6月、ついにアカバになだれ込む。背後から不意をつかれたトルコ軍はなすすべなく背走した。
トルコ軍の戦死者・負傷者は1,200名を数えたが、アラブ側の死者は実に2名という大勝利だった。

その後もロレンスは巧みな戦略でトルコ軍を何度も破った。
しかし、アラブ人は民族の独立どころか、略奪に専念し、さらに部族間の激しい争いが統一を妨げていた。
カイロに戻ったロレンスは、1916年に英仏間で締結されていたサイクス=ピコ協定を知る。
それは、戦後、アラブとトルコの地を、イギリスとフランスで分割しようとするものだった。
祖国に裏切られたロレンスは、激しい怒りを感じるが、その後も悲しみをこらえてトルコ軍と戦い、英軍に先だってダマスクスを占領することに成功する。
アラブ人は狂喜してロレンスを英雄と讃えた。

しかし、結局、ロレンスの「アラブ民族の自由と独立」という願いは叶えられることはなかった。
アラブ人の部族間の対立、そして、自らの白い肌は、彼をしてもいかんともしがたかったのである。


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