2020.8.15
終戦記念日にLINEの参加者にお尋ねしました 「わたしの8月15日」

平岡良之
昭和20年学童は集団疎開か縁故疎開を強いられ私は近江土山に縁故疎開をしました。母と三ツ年上の姉と妹・弟と5人です。たまたま父の実家が空き家でしたので何の気兼ねなく住みました。学校では授業より勤労奉仕(牧場からの牛糞運び、山へ行って牧草刈り取り)が多かった記憶があります。夏休みになり毎日、川(野洲川の上流)へ鮎を捕りに行きました。8月15日、その日は「お昼に重要な放送があるから早く帰ってきなさい」と言われて家を出ました。若い男子は戦争に行って魚は取り放題でした。箱メガネで鮎を引っかける漁法です。早めに帰って玉音放送を聴きました。初めて天皇陛下の声を聴きましたが雑音と難しいお言葉で何にも判りませんでした。横で聴いていた大人の人も、内容を理解できず「敗戦」を認識してませんでした。


十司富夫
私は春日小学校の集団疎開に参加し大江山の麓の村にいました。ラジオ放送も全員で聞きまし たが、なにも理解できない有様。粗末な食事でガリガリに細っていた。良い想い出はありません。


清水 隆
疎開先、石川県美川町(金沢市と小松市の中間、手取川の河口、漁業・農業の町、昔は松前舟で栄えた港) 親戚の家に住んでいました。
玉音放送の当日は、何の用事が町の中を歩いており、各家からのラジオの音(❔)が聞こえてきました。帰宅後、終戦を知り、一瞬、時間が止まり、静寂になったことを記憶しています。全く無感情でした。翌日になって、ようやく、家に帰えられると、ホッとしました。


斎藤富士郎
私は当静岡県沼津市住んでいましたが、7月17日の空襲で家は丸焼けになり、その後縁故を辿って長野県下諏訪にある家に疎開しました。そこで終戦を迎えました。皆さんが言われるようにラジオ放送は何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、「これで戦争が終わった」という解放感だけはありました。あれからもう75年、戦後100年はもうすぐですね。

815日」その日の思い出ではありませんが、その1か月半くらい前のエピソードを2編ご紹介します。
エピソード1
 当時私は沼津市立国民学校4年生でした。担任の若い男の先生は軍国主義のかたまりのような人で、生徒に良くビンタを食らわせていました。その先生にもとうとう召集令状が来ました。昭和20年6月頃の話です。先生は「行って参ります」と元気に挨拶し、生徒一同も「先生、行ってらっしゃい」と送り出しました。ところが、1週間ほどしたらその教室に先生が戻ってこられました。生徒一同も不思議に思っていましたが、そこで先生は開口一番、「私は召集を受けたのだが、身体検査の結果、はねられてしまった。みな、まことに申し訳ない」と言われました。当時は少々のことはあっても兵隊にとられる時期でしたから、先生はよほど悪かった(多分、結核)のだと思います。
 そして先生は続けて、その当時は誰も口が裂けても言わなかったようなことを口にしました。「君たちも日本が今どういう状態かはわかっていると思う。この先、日本がどうなるかはわからない(敗戦を念頭に置いてのことであったと思います)。君たちもその時が来たらどうなるかわからない。その覚悟をしておくように」と言われました。この話を聞いて普段は悪ガキの連中もさすがにシュンとしました。さらに先生は続けて「君たちはドイツが敗けたのを知っているか」と言われました。もちろん、悪ガキ連中はそんなことは知りませんでした。「エッ、ドイツが敗けたんですか」と一同聞き返すと「そうだ、ドイツは敗けたんだ」と重ねて言われました。これはショックでした。そのころ、日本はすべてドイツを手本にしていましたから、そのドイツが敗けたと聞いて子供心にも敗戦が現実味を帯びてきたことを思い出します。
エピソード2
 昭和20年7月初旬ころではなかったかと思います。当時は国民学校の生徒は集落ごとに班にまとめられていました。ある日、班長(上級生です)から放課後に木刀をもって海岸に集まれという指示がきました(我々の集落は海岸べりにありました)。何かと思って木刀を持て海岸に行くと、班長が「これから米軍の上陸に備えて、斬り込み隊の練習をする」といい、子供たちは一斉に木刀を「エイ、エイ」と振り回しました。チャンバラごっこではありません。皆、大真面目だったのです。今から思えば、ナンセンスもいいところですが、そういう時代だったのです。それから1週間くらいたって、沼津市は空襲に会い、我が家も丸焼けになりました。斬り込み隊などどっかに吹っ飛んでしまいました。後から知ったことですが、米軍が上陸地点に選んでいたのは相模湾で、私たちが住んでいた駿河湾ではありませんでした。しかし、もし米軍が上陸してくるようなことがあったら、どうなっていたかわかりません。


中嶋 力
私は、福知山大江町、有路に、集団疎開をしていました。大江町-戦争体験記編集委員会(語り継ぐ追憶)に私の長い文章がありましたが、その終わりの一部を記しておきます。
半年前まで日本の国は神の国だ、どんなに日本の国が負け
そうになっても、神様が日本の国を勝たしてくれると信じていましが、結局、日本は負けました。私は飢えと淋しさに日本が負けた勝ったに関係なく、ただ早く母親のもとに帰りたい一心でした。
昭和20年10月、終戦2カ月後、京都二条駅に戻りました。母親のもとを去って八カ月、笑顔で立って迎えてくれている母親に泣きながら飛びつきました。それは小学校四年生の二学期でした。


島田武俊
毎日朝目覚めるとベットの上でラインを見るのを楽しんでいます。今朝見ているとどこに触れたのか訳のわからない事を発信してしまい大変迷惑をかけ申し訳ありません。なにぶん初心者🔰ですので。昭和20年4月に新洞校は網野町へ集団疎開でした私も2ケ月ほど行っていましたたしか錦林校も網野校だったと思います。終戦の日は富山県高岡市大変におりました大変良い天気で暑い日でした昼に重大発表があるのでラジオを聴くようにとのこでしたが我が家ラジオが有りませんので近所家え行きましたが雑音が多く聞きとれませんでしたあと で大人の人から日本が負けたらしいと聞きました


久世博子
東京品川に生まれ、小三年3月末に縁故、父の従兄弟の家に、三年上の姉と一緒に御世話になりました。
父の兄嫁、その子供 男、女、女、女女 五人。父の兄は亡くなって居られず、従兄弟の兄が当主として支えておりました。その子供が男の子2人計11人の生活でした。疎開先は、滋賀県須惠 。
子供ながらに、藁草履、縄、ござ、綿、味噌、飴、子供の子守、御経の読み方等教わり、いい思い出となりました。
昭和20年3月11日に三才上の姉の受 験の為東京に 戻りましたが、10日の大空襲で、亡くなられた遺体がトラックに山積みされ上からテントの様な布を覆い何台も運ばれる。思わず手を合わせて頭を下げました。
姉の受験 も終わりますます回りが焼け野原に、危ないと母の弟に云われ京都の祖母の家に暫くお世話に、4月1日に移動しました。必要な家具等父が六割りで送れるように、荷物を造り玄関に積んで居ましたが、罹災証明書が無く、4月16日に丸焼けになり、長女は医師の為、必要な医学書を竹で編んだ黄龍を背負って東京駅まで逃げたら本が茶色に、又次女は、師範学校の本が、焼け焦げ恐ろしさに京都に飛んで帰って来ました。兄は特攻隊に取られましたが飛び立つ前に終戦、命は助かりました。医師の姉は傷痍軍人の手当て等仕事が有りました、目黒の家に女医3人と暮らしそこも焼けて。我が家はスッテンテン。
戦後22年に父が亡くなり、母1人子供5人、何も云わず育ててくれました。大変だったね、子供も各々一人逹。母の90才の人生私も目指して頑張りたい�
終戦の玉音放送はラジオの前に座り京都の祖母の離れで聴いて居ました。小三年で四回の転校でした。
疎開から帰ったら家が疎開で変わってました。


土生 幸
朝から娘夫妻とお墓参りをやっと済ませホットしています。谷町九丁目で地下鉄にのらねはならずよういかなかったのですが、車を出してくれたのでたすかりました。
さて、昭和二十年終戦の日、私は亀岡から山の方に入った山村にいました。玉音放送があると母から聞きお昼になるのを待ってラジオのまえにあつまりました。がーがー雑音か多くて何を言っているのかよく理解出来ませんでしたが、母が竹槍でも闘うつもりだったのにと悔しがっているのを聞き戦争が終わったと理解しました。母にはわるいけ どもう敵機から逃げなくてよい、嬉しいなあ❗️と思ったのを覚えています。一つ下の妹は「アメリカ兵が 来たら殺される、早く竹藪に逃げよう。」と母に言っていました。その夜母が電灯にかけてあった灯火管制の黒い布をはずしたのでこんなに明るいとと思ったのと小躍りして喜んだのを覚えています。今、小学生の孫が「ガラスのうさぎ」を読んでいます。体験かないのでいろいろ言葉を聞いてきます。伝えていかないとと思って説明しています。


桐木美恵子
昨日はお墓参りで今日はちょつと(げっそり)疲れ気味�
戦時中の思い出はs20年新学期より兵庫県に縁故疎開しました。
田圃と村の鎮守の森とお社と大きな川が浮かんできます。
家の外に倉庫があって反対側に牛小屋があり大きな牛が藁や菜っ葉をたべてましたね。
年上の子供仲間内で何か大きな爆弾を打ち上げて地球が回ってアメリカの上空にきたところで爆発する仕掛けになつてて日本が勝つのだと話してました。そしてある時日本が負けたこと知りました。
秋になって父が迎えにきて復員兵士がいっぱい乗ってる汽車の窓から中へ押し込んでもらい帰ってきました。2学期に小学校に行ってみるとみんな痩せて青白い顔していてびっくり� 自分が肥って帰ってきたのが恥ずかしかったですがその内すぐ痩せてきました


大多和伸世
大多和です 終戦の時は台湾でした 新天という所です、地ワン人の民家の広場で放送を聞きましたやはり雑音ばかりで何が何だかわからない内に終わりました
不思議に思ったことはその後直ぐ台湾人の日本名の標札が台湾人名の物に欠け変わっていたことです  同じように雑音で聴く難かったはずなのに? あのひとたちあにはわかつていたのかな? 未だ私には分かりせん。その後は中国や、朝鮮と違って大変平和でいつし浮かんしないうちに豊富にでました
あとは引き揚げ船で帰って参りました途中広島を見ようと思いましたが真っ暗でにも見られませんでした


本庄嘉子
今は京都市右京区ですが当時は北桑田群山国村という田舎に疎開していました。我が家は代々油製造業を営んで油屋でしたがその時の番頭さんの家に1人預けられました大きな農家で子供もいなかったので大事にしてもらいました。空襲もなく呑気な環境でした。8月15日は雑音のひどいラジオを皆で聴きました。 負けたげな と後から聞いて敗戦を知りました。家も無事だったし、周囲の人々も何事も無かったし、ボンヤリの10歳の私には私の15日と言えるほどのものはなく今まで迷っていました。


西川 毅
西川の疎開先は父親の郷。 広島県御調郡久山田町。 昭和20年5月、国鉄・尾道駅から歩いて 時間。 どこを見ても麦の種がそよぐ農村風景が広がってました。 久山田が国民学校は、 複式授業。 三年四年が一つのクラス。 三年が12名、四年が6名。 同級に広島市から疎開してきた友がいました。 笑顔で「家に帰ってくる」と言ったぎり、二度と姿は見せなかったのです。 8月に入ったばかりの頃の ことです。 ややあって、クラス全員で黙祷。 悲しい思い出した。15 月に疎開して翌年2月に、錦林校に帰ってくるまで、 麦刈、田植、稲刈・・・。 枇杷の収穫、 掛け一収穫、牛の世話。 ほぼ一年、 瑞穂の国を体験出来たこと、得難い経験でした。 8月1 午前中から桃畑で実をもいで灌漑用の溜池へ。 もいだ桃を池に放り込んで、ドプーン! 桃め 手で泳ぎ比べ。池の中で食べた桃の美味しかったこと。 泳ぎ仲間と共に同級の一人の 側で将棋のピョコ周りに興じいると、先に家に帰った友の一人が駆け込み「戦争負けた。天皇 ラジオで、 そう言ったげな」。 米軍の、所謂『宣伝ビラ』終戦の玉音放送はラジオの前に座り京都の祖母の離れで聴いて居ました。小三年で四回の転校でした。
疎開から帰ったら家が疎開で変わってました。😵


松浦綾子
私も縁故疎開の予定でしたが何故か京都に居残りました。毎日を南禅寺の西門近く、瓢亭に近い処から動物園の前を通り第一錦林国民小学校に通ってました。居残り学級で何を習い、勉強したか覚えが無いのですが 宿題はなく体操的な事の中で過ごしたような気もします。残念ながら誰とご一緒だったかも。兎に角給食の小さなコッペパンを大事に持ち帰り美味しかったことは覚えてます。当時お米は充分なく 満腹感のため 大根ご飯や🍠 おから むかごご飯等々母は色々工夫してました。大根ご飯だけは喉を通らず 親の苦労思うと食べてました。後々は二度と口にしてません。又当時軍関係の役所の様な所の方から 飛行機に乗る方の毛皮の帽子に必要なヌートリア(体は兎位の大きさ 齧歯類)を飼育の依頼があり裏庭に固定の水付き小部屋に一匹ずつ20~30匹弱水の入れ換え 藁の取り替え手伝ってました。餌は兵隊さんが毎日届けて下さいました。後程一枚下さいましたがなめしが悪いのか外毛はやや固く内は柔らかいかも知れませんが使用される方を気の毒に思ってました。戦争も末期になると手が回らない❓のかも。一度機銃掃射を見た事も有りました。疎水に沿って。兎に角必死で帰りどうなっているのか解りませんでした。8・15日正座をして聞きましたが雑音と切れ切れで最後まで解らず終戦であることだけ知らされました灯火管制がとけ電灯の明るさと温かみを覚えてます。我が家の防空壕には一度も入らず 身内の不幸なく終わった8・15日でした。改めて本当に感謝しますと共に世界平和を願い 余り欲を出さず平和な国でいられますようにと祈ります。今秋選挙に関心持ちます。



同報メールでお尋ねしました 「わたしの8月15日」

大賀昭彦
私と兄は、終戦のあの日、疎開に祖母の実家の岡山県津山市の片田舎におりました。戦争が終わったことの知らせを受けた時、これで 京都の寺町御池に帰れるとの子ども心での喜びを感じ、近くの川に裸で飛び込んで、はしゃいだことが 今でも忘れられません。京都には 爆弾は落ちないのに なぜ こんな不便なところに押しやられるのか、、、、って 父母の心配をよそに不満たらたらの毎日でしたからね。今、 84歳、 卓球とジャズヴォ-カルに専念する毎日ですが、これらも 父が寺町御池の写真館・写場のあとにおいてくれた手製の卓球台そして 戦後、帰国記念の写真を撮るために訪れた米兵が父にプレゼントしてくれた一枚のレコ-ド、キングコ-ル の唄う ”Too Young ” がきっかけでした。そして 今日も 健康で楽しい日々を送らせて頂いている源泉は 両親をはじめ皆様方のおかげと感謝感謝の毎日です。是非とも On Line でお会いしたいものです。


谷村賢治
815日の思い出:
終戦時住んでいた家は今の中京税務署の近くでした。それまで住んでいたのは今は大通りになっている御池通りで3月頃に南側全部強制退去させられ移ったところでした。住んでいた家が壊されるのを見るのは寂しいものです。当時みんなと一緒の疎開が多かったですがそれには参加せず縁故疎開で木津に一時いきましたが友達もなく寂しいのでこんなところで死ぬのは嫌だ、みんなと一緒の方が良いと家に戻っていました。朝から友達と外で遊んでいたらお昼前にそれまであった人通りがパタッと消え家に帰ったら母がガーガーピーピーと聞きづらいラヂオを聞きながら「日本負けた~」と言って肩を落とし仏壇の前にペタッと座り込んでいました。そんな寂しそうな母を見たのは初めてでした。今でもそんな姿が目に浮かびます。直接玉音放送は聞いてはいませんでしたが子供心に「負けた」意味が良くわかっていなかったと思いますがこれで召集され伏見練兵場にいた父が帰ってくるかもと思ったかすかな記憶があります。決して明るい記憶がない815日ですがこの日があったから今日につながっているわけで忘れられない日でもあります。


曽我正和
当時、私の一家は神戸市東灘区御影町に住んでいた。私にとっては、8月15日もさりながら、運命の日は、6月5日だった。その日、早朝に空襲警報のサイレンで叩き起こされ、防空頭巾をかぶり、町内会の防空壕に飛び込んだ。その後、1時間ほど、B29大編隊の猛爆撃を受け、大阪~神戸の一帯は焼け野原になった。その夜から、一家は住む家も、食べ物もない流浪の民となった。父は当時、国鉄大阪鉄道管理局に勤めていた。戦災を受けても国鉄の業務は止まらないので、毎日出勤していた。その職場の同僚で、奈良とか和歌山とか、家が焼け残った人達を頼って、一泊~二泊、の仮の宿を借りつつ、文字通り流浪の旅を1ヶ月ほど続けた。そのうち、幸運にも福知山に一戸建ての空家を見つけ、そこでようやく定住生活を始めることが出来た。私は地元の小学校へ通うこととなった。小学校4年生の1学期の終わり間際だった。登校の初日、私はランドセルはおろか、ノートも鉛筆も何もなく、素手で学校へ行くしかなかった。「曽我君は何もないのか??」。それが担任の先生の第一声だった。そのうち夏休みになり、私は近所のガキ大将の子分になって、トンボや小魚を追いかけ回す日々を送った。8月15日の朝、「天皇陛下からの重大なお言葉が放送される」、という通知がまわり、正午にラジオがある家に集まって正座をして放送を聞いた。 「敗戦を認め、戦争を終わらせる。国民は耐え忍んでくれ」。という趣旨を言われたことは何とか分かった。

戦争の重圧から解放さると同時に、「米軍は我々をどうするのだろうか?」という不安が大きかった。あれから76年、8月になると、私は思い返す。「何故、日本は全世界を相手に無謀な戦争を始めたのか?」と。


矢野清一
生来ぼんやりと育ってきたせいか、日頃余り突き詰めて物事を考える事がなかったので、毎年815日のこの季節になると、マスコミを賑わわせる第二次世界大戦の日本の敗戦について、一般論として色々と目にし耳にしてきたが、「愛国少年」ではあっただけに、敗戦の大きなショックを受けた事は事実だが、親戚や友人の中には、可成りの人が身内に戦死などの哀しい出来事にあわれていたが、自分自身は戦争による直接的な大きな被害を受けていなかったので、中学に上がるぐらいまでは、さほど深刻に考えた事がなかった。
今思い返してみると、終戦時は国民学校の
4年生であったが、当時の幼児教育の影響は大きいもので、当時10歳の小学生は、本当に「愛国少年」になっていた。学校で先生に「お前は大きくなったら、何になるか」と問われたら、殆どの「愛国少年」は、陸軍大将或いは海軍大将などと答えていたものだ。又、その頃に自然に覚えた軍歌などは、この年齢になっても、未だにその殆どを覚えている。
幸い京都は殆ど空襲の被害は受けなかったが、家族は用心して、昭和
18年から故郷である滋賀県に疎開していて、昭和20815日の所謂「終戦の日」はその故郷で迎えた。前日からラジオ放送の予告があり、翌815日正午に大事な「玉音放送」があるので、必ず聞くようにと指示されていた。夏休期間中であり、家族全員ラジオの前に揃って、「天皇陛下の玉音放送」を聞いた。ザーザーと言う大きな雑音も入り、余り良く聞き取れなかったが、大人達から戦争は終わったと聞かされた。翌日の新聞でも「終戦」と書かれていた。翌日から空襲警報や警戒警報のサイレンは鳴らなくなった事は嬉しかった。
夏休みが過ぎて九月に入り、二学期が始まった。一学期の終わりの終業式時に校長先生が言っていた「憎っくき米英の彼奴らは」と言う言葉は、もう言われなかったのを鮮明に覚えている。そして「米英国の人々と仲良くなりましょ」とも付け加えられていた。
ただ、子供心に、大人の人は、日本は戦争に負けたのに、どうして「敗戦」と言わず「終戦」と言う言葉を使うのか、不思議に思った。又、どうして簡単に「憎っくき米英」が、一気に「友人」になれるのか、この点も不思議に思った。
然し、当時は未だ世の中の事がよく分からないままに、又、日本人全てが貧しいままに過ごしてきたが、今現在の日本の繁栄を目の当たりにすると、日本人は本当に良くやってきたと思う。やはり「戦争が終わる事」、更には、「戦争がない事」は良い事であり、絶対に平和な世の中が続いて欲しいものと願っている。


伊藤治子
「私の8月15日」
疎開はせず、まだ銀閣寺の近くに住んでいました。毎年8月15日には兄弟揃って大文字山へ登山するのを習慣にしていました。その日は兄と妹と私の3人で登り始めると、途中でゆっくりと低空を飛ぶ米軍の飛行機が見え、焼夷弾や爆弾と違って白い細かいものをパンパンと言う音と共に吐き出しているのに気がつき、兄がどうもおかしいから帰ろうと言い出し、帰りました。飛行機から吐き出した物は雪のように降って来ました。家に着いた頃には、ビラだと分かりましたが、庭中に数え切れないほど落ちていました。母がそれを読んで、ポツダム宣言って何だろうと、言いながら、戦争に負けたらしいと言いました。玉音放送も聴きましたが、ビラで、敗戦を知ったのです。知ったときの底知れない寂しさと不安は皆様と同じだと思います。