古典を読む会シリーズ 第10回

逢坂山周辺に平家物語を訊ねる


 杉野先生の指導のもと「古典を読む会」では、いま、平家物語(巻十 第94句)を

読んでいるが、ますます面白くなっていく。今回「重衡東下り」に出てくる逢坂山、

四宮、追分などをたずねることになった。

秋晴れの一日、京阪電鉄 京津線の無人駅大谷に10:30に集まった。

大谷駅から東へ徒歩5分のところに、天下三関のひとつ、「逢坂の関所址」の

碑がひっそりと建っていた。近くに蝉丸を祀る神社があった。

杉野先生が渡してくださった資料には

逢坂山は京都盆地と近江盆地を分けるように横たわる。昔、武内宿弥が忍熊(おしくま)

王と戦ったとき、この山で敵同士出会ったところからその名があるという。

「古事記」「万葉集」の昔から、文学・和歌・紀行文などに広く登場し、畿内に入る

関門として特に重視されていた。関は大化2年(646)に設置されたが、延暦14年

(795)平安遷都の頃一時廃止され、天安元年(857)再び置かれた。


我妹子に逢坂山を越えてきて 泣きつつ居れどあふよしもなし(万・巻15)

かつ越えて別れもゆくか逢坂は人だのめなる
                 名にこそありけれ(古今・貫之)

その他多くの和歌があるが、なんと言っても有名なのは次の歌である。

   これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも
                 逢坂の関(百人一首、蝉丸)

                         (勅撰集では第3句「別れつつ」)


また源氏物語では石山寺に参詣する源氏の一行が、夫の任地常陸から都に帰る

空蝉の一行とこの関で出会う。この場面は「源氏物語絵巻、関屋」の
しい絵でも

有名である(杉野先生の資料から)

逢坂の関址は今の国道一号線にあった。昔は車石がいるくらい交通も頻繁で

あったと聞くが、今も車が絶え間なくビュンビュン走り、「行くも帰るも別れては

知るも知らぬも逢坂の関」がぴったり実感できる。

{平家物語と逢坂山}

重衡東下り

一の谷の合戦で生け捕りになった平重衡は、京中を引き回された末、頼朝の要求

により鎌倉に送られる。平家物語には次のようにある。

「粟田口をうち過ぎて四の宮河原にもなりければ・・・中略・・・思ひやられてあはれ

なり(巻10・第94句 重衡東下り)」美しい道行文が読む人の心をひきつける。

また四の宮河原については「逢坂の関あたりを四の宮河原と名づけたりといへり」

と中世の「東関紀行」にある。現在、駅名として残っている。(先生の資料から)

逢坂の関址から約50mほど歩いたところの「かねよ」といううなぎレストランで昼食

石原さんが「ここの錦糸丼
が美味しいそうよ」と教えて
くれた。


先生の横に座って美味しいうなぎを頬張りながら先生のお話を聞く。

「この逢坂の関は百人一首だけでも(蝉丸法師のこれやこの・・)以外にも

何し負はば逢坂山のさねかづら人に知られて
              来るよしもがな(三条右大臣)

夜をこめて鳥のそらねをはかるとも世に逢坂の
           関はゆるさじ(清少納言)


などの歌があるでしょう」

「蝉丸も小野小町も清少納言もこの辺りに来たのですね」

「平重衡もこのあたりを通ったのですね」とみんなは口々に言う。

みんなはよく勉強している。


蝉丸神社

京阪電車
の線路越えて蝉丸神社の参道に入る。

蝉丸は平安時代の歌人で、盲目、琵琶の名手であったとつたえられる。醍醐天皇の第

4子とも、仁明天皇第4子とも、また、宇多天皇の皇子の雑色だったとも、その伝記は不明

であるが、能「蝉丸」や人形浄瑠璃「蝉丸」に取り上げられ、文学、芸能方面でよく知られて

いる。能では「延喜の帝の第4皇子蝉丸が幼いときから盲目だったので、帝が侍臣に逢坂山

に捨てさせる。本人は前世の報いと諦め、源博雅三位が用意した藁屋に住み、琵琶に心を

慰めている。そこへ姉の逆髪(狂女で髪を逆立てている)がやってくる。姉は弟と知って、

手を取り合って互いの不幸を嘆き悲しむのだが、この曲、第二次大戦中は上演禁止であった。

終戦後、上演可能になった。神社の入り口に「せきのしみず」といわれる石標がある。


逢坂の関の清水に影見えていまや引くらむ望月の駒(紀貫之)



拝殿の横には時雨灯籠とよばれる六角形の石灯籠があった。また本殿裏の細い山道の

入り口に小野小町塚がある。小野小町は若かりし頃は一世の美女とうたわれたが、老いて

の後の小町を扱った大曲の一つに「関寺小町」というのがある。老衰して関寺付近に閑居

していた小町が七夕祭りの日に、訪れてきた近所の子供達に交じわって、足元もたどたど

しく童舞を舞い、華やかなりし昔を夢想し、悲痛な思いにふけるという、皮肉さも感じさせる

幽玄の曲である。月心寺百歳堂のももとせの小町をうつしたという木像のものすごい形相

が脳裏をよぎる。昔の関寺あたりは、今の大津市関寺町とかんがえられる。

(杉野先生の資料から)

小野小町塚には 「花の色はうつりにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに」

という有名な小野小町のうたが刻まれていた。もう摩滅していて文字も判りにくい。

この神社の境内には「逢坂山の真葛(さねかずら)があった。別名「美男かずら」というらしい。

万葉集巻11  物に寄せて思ひを陳ぶる 

  さねかずら後も逢はむと夢のみに
         うけひ渡りて年は経につつ
              (柿本人麻呂)

長安寺に向かう道で「小町湯」というお風呂屋さんがあった。先生が何十年も前に来られた

ときからあったそうだ。ここのお湯につかれば小町のようにうつくしくなる?

牛塔

高さ2・3mもある巨大な宝塔である。

恵心僧都が再興したときに迦葉仏が白牛に

化身して手伝い、工事とともに死んだ。その

牛を弔うために造ったといわれている。藤原道

長や頼道までが拝みにくるという騒ぎであった

上栄町から大谷まで京津電車に乗って月心寺に向かう。

月心寺

月心寺の玄関脇に清らかな水をたたえた井
戸があり、走り井としるしてあった。

昔、逢坂山の峠道を歩きつかれた旅人はどれだけこの泉水に身と心を癒された

ことだろう。歌川広重が描いた東海道五十三次にある大津の錦絵には溢れ出る

走り井の水のそばの茶店で旅人が休んでいる姿が見られる。

詩や文にもよく登場し、名を知られている。

枕草子「井は・・」の項に「井はほりかねの井、玉の井、走り井は逢坂なるが

おかしきなり」とある。広重が描いた茶店はその後、荒廃していたのを、大正

の初め橋本関雪画伯が別邸にし、昭和20年(1945)月心寺となった。

松尾芭蕉の句碑「大津絵の筆のはじめは何仏」もある。(先生の資料から)


「百歳堂」という庵室には小野小町の像が祀ってあった。「子供もこれを見て泣く」

と噂に聞いていたけど思ったほど怖くなかった。

お座敷で走り井餅とおうすを頂く。ここでみな解散となり、追分の駅のほうへ急いだ。