古典を読む会シリーズ


洛東に平家物語をたずねる



      「古典を読む会」では京都を訪ねることになりました。頃は新緑の好季節。

      杉野先生は平家物語に因んだ行き先 法住寺陵、三十三間堂、六波羅蜜寺、建仁寺、八坂
      
      神社、長楽寺等々  いつものようにB5 4ページの参考資料と地図を添えて皆に

      配ってくださった。参加者は12名。   

     
     京阪電鉄七条にあるマクドナルドに一同は集合した。先生に頂いた地図を片手に

京の街を歩く。10時50分に法住寺殿跡に着きました。

法住寺跡
   
   元右大臣藤原為光が花山天皇女御の菩提を弔うため建立した法住寺のあった所。その後

    火災で荒廃していたのを後白河法皇がこの地の風光を愛されて離宮を造営されたのが法住

   寺殿である。法皇はここで政務を執ることが多かった。大小殿堂八十余宇に及んだという。

寿永2年11月、木曽義仲の軍勢が離宮を襲ったいわゆる法住寺合戦は有名である。
                
                                 (先生の資料から)
  


   
11:05 三十三間堂は相変わらず修学旅行生でごったがえしている。長寛2年(1164)

      後白河法皇が清盛に命じて作らせたもの。


三十三間堂


法住寺殿の一角に清盛が建立したもので境内に法住寺跡の碑が立っている。院が管弦を楽しんで

いるさなか、神護寺修造の大願をおこした文覚が勧進帳を捧げて押し入り、管弦の席は台無し

になった。このことで文覚は院の不興を買い伊豆に配流となった(巻五)今の建物は鎌倉中期

のもので三十三間堂の名は内陣の柱間が三十三あるところから称される。本尊は十一面観音の

座像である。(先生の資料から)



観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28部衆像は千手観音とその信者を護ると

いう神々で、インド起源のものが多く、これは慶仏仏師の手によるもので国宝である。

国宝「婆藪仙人像」は本当にシワだらけのおばあさん像で印象に残った。


 後白河天皇法住寺陵

   後白河天皇は鳥羽天皇の第4皇子。天皇としては在位わずか三年であった。その後五代天皇の間

院政を行い、平家の専横を憎み源氏にこれを討たしめられたが、結果鎌倉幕府の樹立となり、失意

のうちに建久3年3月13日六条西洞院殿で崩御になった。66歳(先生の資料から)

六波羅蜜寺


六波羅は平家の公達の私邸が並んでいたところ。寺は空也上人の開創と伝えられる。

本堂は国宝、本尊は十一面観音(先生の資料から)

以前に何度も来た事はあるが、中に入ったことはなかった。暑い中を歩いてきたが境内にはおれば

涼しい風が心地よい。平安時代には五条の橋まであったという広大な寺域を持っていた六波羅蜜寺。


宝物館

清盛座像(鎌倉重文)。平家物語が描く清盛とは趣を異なり、仏者としての気品に溢れる太政大臣

浄海入道清盛公の像である。清盛の像はかつての経が島(現在の神戸市兵庫区)に立つ僧形

の像や、京都の若一神社にある衣冠束帯の像などいくつもあるが、圧巻はこの座像であろう。

経巻を手にし、玉眼の眼差しは鋭く、強烈な意思を感じさせる像である。(先生の資料から)

清盛像は期待していた通り、大物の風格があった。清盛はこの座像ができた頃は仏者としても、政治家

としても特別に優れた人であった。平家物語に出てくる晩年の清盛は私利私欲名誉欲の出た「おごれる

平家」の代表になっていたのではないか・・・?「えらくなると誰でもアホになるにね」と誰かが言っていた。

清盛の僧形の座像は珍しいと杉野先生は言われる。

空也上人像(鎌倉重文)

  運慶の四男康勝の作。念仏を唱える口から

  六体の弥陀が現れたという伝承のままに、洗

  練された写実彫刻である。(先生の資料から)



六体というのは南・無・阿・弥・陀・仏の六つであるとか。この空也上人像がここのメーンである。

こけた頬や血管の浮き出た足や草履など運慶派の写実的であるが口から吐きだされる小さな

仏像が非リアルな感じ。像高117cmであると書いてあるが等身像であれば空也上人は小柄な人

だったのか、年老いて縮まれたのか・・?

ひとたびも南無阿弥陀仏と言う人のはちすの上にのぼらぬはなし(空也

六波羅蜜寺は宝の山で、空也上人の隣の地蔵菩薩坐像はなかなかのハンサムでいらっしゃる。

運慶作だって。その横に定朝作の地蔵菩薩立像があった。これは鬘掛地蔵ともいわれる。息子の

湛慶作の運慶坐像もあった。

建仁寺

臨済宗建仁寺派の大本山で、栄西禅師の開創したわが国最初の禅刹として知られる。栄西は

鎌倉初期の人。日本に初めて茶の実を移植した人。

勅使門(室町 重文)

切り妻造りの四脚門で、純然たる唐様の大変垢抜けた門である。もと平重盛(一説には敦盛)の

六波羅第から移したと言われ、扉に源平の争いの矢疵があるので「矢の根門」といわれる

祇園女御の塚(邸址)

丸山音楽堂の西。地蔵堂の背後の四十坪余の空き地がそれである。

康頼・西行・頓阿の塔

円山公園の南に接する双林寺の本堂前脇にある。康頼は鬼界が島から帰洛し、

この地にあった山荘に入り、次のように述懐した。

ふる里の軒の板間の苔むして思いしよりももらぬ月かな

長楽寺

丸山公園の東南にある。勅願所として歴代天皇の帰依厚く、格式、寺域とも他を圧して

いたが、今は十一面観音を本尊とする本堂と鐘楼、庫裏等があるにすぎない。

建礼門院供養塔

十三重の塔。平家滅亡後、当寺で女院落飾のとき、お布施として奉納された幼帝の御衣が

幡(ばん)につくり改められ、今なお寺宝としてつたえられている。

建礼門院の足跡(平家物語より)

女院は東山の麓、吉田の辺り、神楽岡の西麓に入った。五月一日出家。

「御戒の師は長楽寺の別当阿証坊の上人 印西なり」御布施に先帝の御直衣を差し出す。

阿証房これを幡にぬひ、長楽寺の正面にかけられけるとぞ承る」(以上青文字は先生の資料から)

軍記物としての「平家物語」では男性達による合戦の様子が次々に描写されていく。男性達による

権力抗争や殺戮の中で、人生の流転を強いられる女性もいる。わたしたちは今まで、祇王、祇女、静

御前、小督、小宰相などを習ってきた。その中でも存在感を放っているのが建礼門院徳子である。

平清盛の子として生まれ、後白河法皇の第七皇子である高倉上皇と結婚し、安徳天皇を生む。

平家滅亡の地である壇ノ浦で、建礼門院も船から身を投ずるが、敵方に救われる。京都へ連れて

行かれ、上記 杉野先生の解説に書かれているように、元暦2年(1185)5月一日 東山の長楽寺

において得度した。同じ年の暮れ、大原寂光院に隠居。文治2年4月、あの後白河法皇がこの寂光

院に御幸。


文治2年の春の頃、法皇は「女院の大原の閑居の御住まいを御覧ぜまほしく」おぼしめされ

けれども、如月、弥生のほどは余寒もなほいまだはげしく、峰の白雪消えやらで、谷の氷も

うちとけず。かくて春過ぎ、夏にもなりぬ。賀茂の祭りのころにぞ、おぼしめしたたせ給いける。

建礼門院のうた 

いざさらば涙くらべんほととぎす われも憂き世に音をのみぞ鳴く

(平家物語 巻12 大原御幸から)

平忠盛灯篭

八坂神社の拝殿東方に平忠盛灯篭がある。平忠盛が雨の夜、白河法皇の供をして祇園の女御の

許に行くとき、灯篭の灯火に映じて鬼のように見えた老僧の正体を見抜いて法皇御感を得、御寵愛

の女御を賜った。その女御はすでに清盛を宿していたという話が平家物語にある。灯篭は鎌倉時代

末期の古作だが寄せ集め品(先生の資料から)

四条通りに出て解散となり、京阪電鉄と阪急電車に分かれて帰途についた。「平家物語」で

お馴染みになった六波羅、法住寺殿、長楽寺などを訪ねて、やっぱり京都は懐かしい。

感じがした。同じものが「見たい、知りたい」杉野先生のチルドレンのグループ。

みんなは満足感いっぱい。洛東の旅は終わった。