洛西に平家物語をたずねる

< 仁和寺、長泉寺、法金剛院>

  「古典を読む会」のメンバーは平家物語をたずねて洛西に出掛けることに

 なった。


 平成22年10月、 京都四条大宮 嵐電乗り場に集合した。

 「帷子の辻」駅で嵐電北野線北野白梅町行きに乗り換え御室仁和寺駅まで。

 
 
杉野先生はいつものようにB5用紙4ページ分の解説と洛西の地図1ページ

  を皆に配ってくださった。

                         

                     仁和寺


 
 仁和2年(882)光孝天皇が伽藍建立を発願、その遺志を継いで宇多天皇

 が仁和4年に落成、入山、ここに御所を営んだ。その御所を「御室」(おむろ)

 と称した。 御室と は貴人が仏門に入って生活する僧坊のことである。以来

 皇室の尊崇あつく、皇子・親王が相次いで入室した。真言宗御室派の総本

 山。「御室の桜」は有名。

  
本尊は光孝天皇の等身大の阿弥陀三尊像。広大な境内には御所から移

 築した金堂や御影堂のほか五重塔宸殿、旧書院などが並び、美しいたた

 ずまいをみせている。


  
 
                     
(杉野先生の資料から)



古典にあらわれた仁和寺

                   @ 平家物語

   
寿永2年(1183)7月25日の平家一門の都落ちに際し、幼少のころ、仁和寺

  
に仕えた平経正は、守覚法親王に別れを告げるため、寺に馳せ参り、御室に

  対面を 求める。経正は「先年下しあづかりて候ふ青山、持ち参りて候。あまりに

  名残は惜しう候へども、さしも我が朝の名物を田舎の塵になさんこと口惜しう候・」

  と涙の中に対面し、青山の琵琶を返上する。寺中の人が経正を辛い思いで見送

  る。経正の話は能楽にも取り上げられ、修羅能「経正」では「仁和寺の僧が守覚

  親王の仰せにより経正の霊を弔うため、青山の琵琶を仏前に供えて回向すると、

  琵琶の音を慕い経正の霊が現れる」という筋立てになっている(先生の資料から)

  仁王門の入り口を抜け、宸殿に入る。入り口のところに藤袴の花が咲き誇ってい

  た。「いい匂い」Mさんが感激している。
 
  お玄関には御室流のいけばなが凛といけてあった。宸殿は御所風の建築。白川

  砂を敷き詰めた庭を眺め眺めながら「この庭のどこで平経正は青山の琵琶を渡

  したのかしら ・・」 とみんなで言い合う。

   仁和寺の御室の守覚法親王はもとより、昔の同僚、坊官みな別れを惜しんで

  袖をぬらさぬ者はなかった。経正は次のような歌を残して出発したと「絵本 平

  家物語」 に安野光雅氏は描いている。

   旅ごろも夜な夜な袖をかたしきて思えばわれはとほくゆきなん 平経正

  
霊明殿の入り口には「心静かにご参拝ください」の立て札があった。

                   A 西行

  
 保元元年(1156)保元の乱がおこる。敗れた崇徳天皇は仁和寺に逃避、

  剃髪。 そのあと讃岐に配流の身となった。直前に西行は崇徳上皇を仁和寺

  に見舞って いる。

                  B 徒然草

   
仁和寺の法師が作品によく登場する。石清水八幡宮に参拝したある法師の

  失敗談、酒席で足鼎「三本足の青銅器」を頭から被って抜けなくなったはなし、

  その他、失敗談が多く取り上げられている

                     C源氏物語

   光源氏の兄にあたる朱雀院が皇女「女三宮」を源氏に委ねた後に入山した

  「西山なる御寺」と物語にあるのは仁和寺のことだといわれている。また仁和

  寺の背後の山を「大内山」というがこの山の名も作品に出てくる。
                               (以上先生の資料から)

五重の塔

   五重の塔のところまで 歩いてきたときに雨が降ってきた。雨にぬれた五重塔

  がまた美しい。重文の五重塔は各層の 屋根の大きさがほぼ同じという江戸時

  代の特徴を示している。近くに有名な御室の桜の木があった。この桜の背が低

  いのは地盤が岩であるため、伸びることができず、背が低いのだそうだ。根元か

  ら枝がいくつにも分かれて、いっぱい花 をつけるのは見事である。別名おたふ

  く桜ともいう。  昼食後「長泉寺」に歩いて行く。

                  長泉寺

   徒然草の作者、吉田兼好の旧跡。兼好は48歳ころ、ここ双ケ丘に無常所を

  設け、68歳で没するまでの20年間、ここを安住の地と定めて自由人の生活を

  楽しんだと思われる。 寺は双ケ丘の東麓にあたり、兼好を偲んで元禄年間に

  建立されている。

   堂内には兼好の木像がある他、境内には兼好の墓もある。(先生の資料から)



   長泉寺の中は森閑として人の気配がない。秋明菊の花が咲いていた。墓地に

  入って兼好のお墓を探すが見つからない。 このお寺の向かいに「つれづれ最

  中」を売っている和菓子のお店があった。 「長泉寺の方は、今日法事でみんな

  お留守ですよ」と店の奥から出てきたお上さんは気さくに案内してくださった。

  兼好塚の傍らに歌碑があった。


        成り果てんその身はここに名にしおう花と双びの丘の辺の土

   和菓子の店のお上さんは「古典を読む会」だというと双ケ丘の地方誌を見せて

  くださった。


       ならびの丘に無常所まうけてかたはらにさくらをうへさすとて


       
ちぎりをく花とならびの丘のへにあはれいくよの春をすぐさむ

  とあるによって晩年は双びの丘に小庵を結んで終焉の地としたと思われる。

  と書いてあった

                      法金剛院

   平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘があったところであるが、夏野の

  死後、寺となる。その寺も荒廃していたところを平安末期の鳥羽天皇の中宮、

  待賢門院によって再興され、名も「法金剛院」と改められた。山号の五位山と

  は法金剛院の背後の山の名で、仁明天皇が山からの眺望を賞でて、五位の

  位を賜ったことに由来するという。

   
京都には数少ない律宗のお寺で、奈良の唐招提寺に属している。庭園は平安

  末期の、池泉回遊式浄土庭園の貴重なもので、花の寺としても知られている。

  雄大な「青女の滝」 は見事である。        (先生の資料から)



    法金剛院に着いたときには雨が本降りになっていた。庭を眺めながら先生の

  お話を聴く。

  「皆さん五位鷺という言葉を聞いたことがありますか?鷺という鳥は単独で行動

  します。 動作はゆっくりですねえ。 あるとき、村上天皇が、一羽で飛んできて、

  じーとしている鷺を観られて 『そこを動くな』 と言われた。鷺はそれを聞いたの

  かどうかはわからないけれど、じーと動かなかったの。 それで『うい奴じゃ。五

  位の位を授けよう』というわけで、それから五位鷺と呼ばれるように
 なったの

  です。 わたし達の今眺めている前の山も仁明天皇が山の眺望を賞でて五位の

  位を賜ったから五位山とよばれるのよ」とおっしゃった。

                         待賢門院

    待賢門院は17歳で入内。崇徳、後白河両天皇の母となった。法金剛院

  建立後はしばしば御幸になっている。法金剛院で落飾、3年後に45歳で崩

  御になり、五位山に埋葬された。 近くにある「花園西陵」がその墓所である。

  その東方には皇女、上西門院の「花園東陵」が ある。

     法金剛院は西行法師と関わりが深い。西行の出家については諸説ある

  が待賢門院との 恋も動機の一つになったといわれている。西行は出家の後

  も門院が亡くなるまでは都を 離れられなかった。


      尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君が行方を (西行)

   
かへし
      
吹く風の行方しらするものならば花と散るにもおくれざらまし (堀河)

   これは待賢門院が亡くなり、喪に服していた人々のところへ行った時の、西

  行から堀河の局におくった哀傷の歌とその返しである。法金剛院には待賢門

  院に仕えている。すぐれた女性たちが多く、西行はそれらの人たちと親交があ

  った。待賢門院堀河もその一人で百人一首に 「長からん・・・」の歌がある。
                               (先生の資料から)

   崇徳院は白河法皇と鳥羽天皇の中宮である待賢門院の間にできた第一

  皇子であったので鳥羽天皇はこの皇子を叔父子と呼ばれていた。鳥羽天皇

  には祖父にあたる白河法皇の御子だから叔父であると同時に名目は「子」で

  もあった。これが「保元の乱」の因を作ったと先生はいわれる。
 
  「後に西行は讃岐にある崇徳院の御陵に詣でています。わたしも崇徳院の

  御陵におまいりしました。」 雨もやみ、池泉回遊式浄土庭園 のまわりを散

  策した。

    本堂の中に入ると正面に立派な阿弥陀如来(重文)のお姿に圧倒された。

  平安時代、西御堂の本尊の藤原仏を代表する丈六阿弥陀如来で「院覚の作」

  だとパンフレットに書いてあった。 美しい待賢門院はここでこの仏さまに日夜、

  礼拝されていたのだと思うと感慨深い。

  五位山の中腹に東面して建っ ている花園西陵はつつじの植え込みにかこま

  れていた。
 
   JR花園駅駅前の喫茶店でコーヒータイム。そのあと、解散となった。