古典を読む会

   宮島に平家物語をたずねる

 
  平家物語をたずねる旅,今回は日本三景の一つであり世界遺産の島 宮島に決定。

  出発する前に杉野先生から「平家物語にみる厳島」をいただきました。

平家物語にみる厳島

 平清盛は久安2年(1146)28歳で安芸守に任ぜられた。

以後、この地を支配するが、ここが瀬戸内海を掌握する要所だとする考えを早くに持っていたと思う。

 厳島神社は推古天皇即位の年(593)に創建された古寺であるが、仁安3年(1168)、

清盛が現在の姿に拡張、造営した。

 清盛は安芸の国力をあげて荘厳華麗な姿に造りあげた。高野山の大塔修理のとき、奥の院で、厳島

神社修理による平家の繁栄を、或る老僧に予言されたからだ、と平家物語は記す。(巻三 大塔修理)

 権勢を誇った平家一門の影響もあって都から皇族、貴族ら多くの人たちが宮島を訪れて、

都の華やかな文化がこの島に根付くことになった。

 治承4年(1180)2月、高倉天皇は3歳の皇子に位を譲ることになった。安徳天皇である。清盛の権

勢はいよいよ頂点に達する。3月、高倉院は厳島御幸を思い立つ。これを世人は、清盛の尊崇する厳

島神社ゆえ、清盛の心を和らげんとの祈念のためと見た。(巻四 厳島御幸)

 折りしも、父後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されているときであった。

 高倉院は有の浦(蟻の浦とも)から島に上がった。清盛の最愛の内侍の宿所が御所に当てられた。3

月26日むま(午)のとき宮島に着御、大宮に御参詣。27日も御参拝。日暮、滝宮(滝宮神社のこと)に

お参りになり、雲居から白糸の滝の落ち来るのを喜ばれた。29日、島人仰山に騒ぎ、内侍ども名残を

惜しむ中を島を去られた(「高倉院厳島御幸記」より)


 清盛の建てた厳島神社を先生以下10名の生徒がたずねる。

 9:35発の新幹線レールスターに乗車。11:09広島駅に着く。

11:20発の宮島行きに乗り継ぎ、フェリーの乗り場まで。

目の前でフェリーは陸を離れて、私たちは行く船を見送った。

待合室で富子さんがアツアツ できたてのもみじ饅頭を配ってくれる。

お腹も空いていたし、美味しかった。

 12:05乗船。

  「観音さまの寝姿」といわ
   
   れる山が見えました

  今日のお宿、桟橋から歩いて3分という 「ホテル 菊川」にチェックイン。宮島の古い町屋

通りにしっとり佇む町屋風ホテル。

 表参道商店街には宮島の大杓子が飾られている。

 「くら光」で昼食。ここはあなごや牡蠣が名物である。あなご丼は甘辛く、美味しかった。

 13:20 お菓子店(藤い屋)の前に「有の浦」があった。

 「この有の浦に高倉天皇が上陸されたのです。

ここに来るまでに福原に清盛を訪ねています。3月19日

に出発、八幡宮に参詣され西宮、鳴尾から3月20日申

の刻に生田の森に着かれました。福原の清盛は歓待しま

した。唐人の服装で天女のようなお神楽で歓待したとい

います。翌日、須磨浦から清盛の船に乗って、

3月26日午の刻に有の浦につきました」と先生が話された。

 五重塔を左手に見て宝物館に入る。ここには国宝にもなっている平家納経が収蔵されている。館内

は平家一門が繁栄を祈願して書写した経典が展示されていた。

 今日の名品は「紺紙金字法華経 巻3・巻5」であった。清盛の写経もあり、ガラスのショーケースに

きれいに並べてあった。ここのおばさんは洗剤をつけた布でガラスケースを力をこめて拭いている。

「たいへんですねえ」と声をかけると

「はい、ガラスケースを手で触られると脂や指紋がついてなかなかとれないんですよ」と丹念に磨いてい

るが、その後から何も知らない見学者はガラスの上に手をべたべたと置いて眺めていた。

 厳島神社は平安時代の寝殿造りの建築様式を取り入れているといわれ、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、

高舞台、客人神社、能舞台、楽屋などが朱塗りの回廊で結ばれている。

回廊を更に歩いていくと左側に灯籠が見えた。

先生が「あの灯篭が平康頼ゆかりの灯篭よ」といわれた。(巻2 卒塔婆流し)

 治承元年(1177)鹿ケ谷の陰謀で、平家打倒を企てた者のうち、平康頼、俊寛、藤原成親の子成経

の3人は鬼界ケ島に流罪となった。

 流された3人のうち、康頼と成経はかねがね熊野三山を信仰し、鬼界ケ島においても似ている地形を

見つけて熊野三所権現を祀った。俊寛ひとりは見向きもしなかったけれど、康頼は母恋しさに千本の

卒塔婆に2首の和歌を書いて海に流した。

  判官入道(康頼のこと)、あまりに都の恋しきままに、せめてのはかりごとに、千本の卒塔婆

  を作り、阿字の梵字を書きて、年号、月日、仮名、実名、さて二首の歌をぞ書きたりける。

     さつまがたおきの小島にわれありと親にはつげよ八重のしほ風

     思いやれしばしとおもふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを
  
  これを浦に持ちて出で「南無帰名頂来、梵天、帝釈、熊野権現、金剛童子、厳島大明神、願

  わくはこの卒塔婆一本なりとも、都のうちへ伝えてたばせ給へ」とて奥津白波の寄せてはかへ

  るたびごとに、卒塔婆を海にぞ浮かべける(平家物語 巻2 三人鬼界ケ島に流さるる事 から)


 そのうちの一本が安芸の厳島大明神 御前のなぎさに流れついた。

しかも拾ったのは康頼の知り合いの僧侶であった。

 その後、康頼と成経は都に帰ることができたが、俊寛は帰ることができなかった。

 康頼が帰洛後に感謝して奉納したという「康頼の灯篭」もあった。

灯篭は八面体で仏像が彫ってあった
 
 


厳島神社

 厳島神社の鳥居の向こうは夕日がきれいだった。


  あくる朝、わたしたちは経塚に行く。経塚は丘の上にあった。

  経塚

 この丘は「経の尾」と呼ばれている。経塚は清盛塚ともいわれ、平家一門の繁栄を祈願して一字

一字、石経を埋めたと伝えられている。昭和19年開墾の際、一部が発掘されて銅製の経筒、陶製

の甕と中国宋代の白磁の盒子、梅花双雀鏡、刀片などが発見された。

 経塚の辺りは積み石で覆われ、宝筺印塔、石灯籠は後世のものである。

と書かれた立て札があって、その横に石碑様のものが立っていた。この丘の上から宮島が見渡せる。

厳島神社の大鳥居も見えた。
   紅葉谷公園に向かう。紅葉にはまだ早いが少し色づいている。    

 今日は強風のため、ロープウエイは止まっていた。痩せた年増の鹿(推定年齢 人間でいえば 私た

ち位)が寄ってくる。もみじ谷川から「うぐいす歩道」を歩いた。原始林の豊かな緑。自然がいっぱい。

道端には山しだが生えていた。

     

  宮島一泊旅行は充実した中身の濃い感動しっぱなしの旅行でした。若き日の清盛が造っ

た厳島神社、清盛直筆の納経や康頼の卒塔婆流し、高倉天皇が上陸された有の浦など、本で読んで

いたところが目の前にあって、往時をしのぶことができました。