古典を読む会シリーズ第9回

藤戸に平家物語をたずねる

古典を読む会で、「今度は藤戸をたずねることにしましょう」と杉野先生はおっしゃった。
 平家物語の下巻の第百句「藤戸」の 舞台であるが、わたしは藤戸が何県にあ
るかも知らなかった。 杉野先生はいつも平家物語ゆかりの史跡めぐりを計画
して下さる。今回も「藤戸」へ の一日旅行は先生のオリジナルプラン。
いつものように岡山県倉敷市藤戸町の資料をB4紙に
2枚を頂いた。

期日   平成19年1126

行き先  岡山県倉敷市藤戸町

コース  新大阪駅ひかり453岡山−JR倉敷

倉敷駅(バス)山陽ハイツ入口・・山陽ハイツ(昼食)

藤戸寺  安原さんのお話

史跡めぐり

@藤戸寺─A経ケ島─B盛綱橋─C乗出岩─D佐々木谷─E笹無山─F先陣庵─G鞭木跡─H浮州岩藤戸寺帰着

10月25日付朝日新聞夕刊の切り抜き「魅知との遭遇 京都醍醐寺の藤戸石」の
  記事をコピーしたものも一緒に頂いた。安原さんとの交渉も先生が電話でして
 下さった。安原さんは「観光案内倉敷総集編」や「倉敷市水江の俚諺」などの著書が
 ある倉敷の郷土史家である。ボランティアで藤戸の史跡を案内してくださる予定。

1126日(月)晴れ

新大阪駅 8:59発 ひかり453号は20番線から発車した。
  一号車のホームに集まり、みんな揃って岡山まで。
倉敷駅に
着いたわたし達をカラフルな山陽ハイツのバスが迎えに
きてくれた。
 昼食までの時間、山陽ハイツのお庭を散策する。

よく手入れが行き届いていた。

紅葉も見ごろで、池にはメタボリック状態で胴回りの太い鯉がいっぱい
泳いでいた。
「この鯉たちは運動不足なのよ。こんな狭いところに、
こんなに沢山の鯉がいるんやもの・・」と誰かが言った。

昼食は山陽ハイツの中のお座敷で。海の幸、山の幸が豊富で食べきれないくらいあった。

戸寺には12:32に着いた

藤戸寺は僧行基が聖武天皇の天平年間に創建されたとされている。
藤戸の戦いの後この地に入国した盛綱が、合戦で荒廃した寺を修復し、
敵味方の戦死者と漁夫の霊を弔うために大法要を営んだところである。
(杉野先生の資料から)

   ここでボランティアの安原さんを紹介される。わたしたちは安原さんから
「源平藤戸合戦関連資料」を配ってもらい、レクチャーを受けた。

小鳥の囀りがバックグラウンドミュージックで、興味深いお話を聴くことができた。

今から800年以上も前、寿永3年(1184)この藤戸で源平の合戦が繰り広げられた。

藤戸合戦

都落ちしてから一年、寿永3年(1184)2月、一の谷で敗れた平家は八島に退いた。
源氏方は9月範頼を将として山陽道に平家追討に発向した。
   平家は備前の児島に布陣、源氏は藤戸に陣を取ったが船なくして海面が渡れない。
その時、源氏方の佐々木盛綱は土地の男から浅瀬を聞き出し、聞いたそのあと、
その男を殺し、男に教えられた通り 海に馬を乗り入れて先陣の功を立てた。
平家は敗れた。
盛綱はその功により頼朝から児島を賜った。
壇ノ浦における平家滅亡はこの翌年3月のことであった。(先生の資料から)

平家物語では巻十 第百句「藤戸」にある

九月十二日、三河守範頼、平家追罰のために山陽道へ発向す。
―略―さるほどに平家の方の大将軍には小松の新三位の中将資盛―
-略―備前の国児島に着く。と聞こえしかば、源氏三万余騎、播磨の室山
をたって、備前の藤戸へぞ寄せたりける。源平両方、海のあはひ五町あまり
をへだてたり。船なくしてはたやすく渡るべき様もなし。
-略―

そのとき佐々木の三郎盛綱、浦の男をひとりかたらひて、小袖と刀と
らせて「馬にて渡すべきことなきか。知らぬことはよもあらじ。教えよ」・・・略・・

現在の藤戸は陸地となっているが合戦当時は海に島が点在していた。
平氏は備前児島に陣を備え、源氏は幅約500mの海峡を挟んだ
本土側に陣を構えた。

謡曲「藤戸」は能において多く演じられる演目のひとつである。
杉野先生からもこの前の講義でお聴きした。

浅瀬の存在を聞いた盛綱は先陣の功を他人に奪われるのを恐れ、
教えた若者を殺害したという。このエピソードを元に室町時代に作られた。

1、前段:盛綱はこの戦いの功績で児島に所領を与えられた。領地に赴いた
盛綱に殺害された浦の男の老いた母親が恨みを訴える

2 後段:殺害をした盛綱は若者の法要(管弦講)を営む。法要が行わ
れていた明け方近くに若者の亡霊が現れる。若者は盛綱に祟りを及ぼ
そうとするが、盛綱の供養に満足し、やがて成仏する。

「平家物語には今まで随分になったお話を杉野先生にお聴きしたでしょ。
だから今、瀬戸内寂聴の
世阿弥を読んでるの」と石原さんは言った。

盛綱橋

藤戸寺の下を流れる倉敷川に架かる橋。もと藤戸大橋といったが
大正15年の架け替えの時に盛綱橋と改称された平成元年装いを
新たにした。(先生の資料から)


 経ケ島

盛綱橋の東北、小学校のそばにある小丘で、昔は小島であった。
盛綱が藤戸寺で法要を営んだときに書き写した経を埋め、経塚を建てた
ことから経ケ島とよばれる。盛綱が浦の男のために建てた漁塚もある。

(先生の資料から)

バスは笹無山に向かう。この辺は一帯が海だったところ。
右手に高坪山が見える。左手の山々に平家の陣所があった。安原さんは
「笹無山」を歌われた。

 藤戸の浅瀬 どこにある教えた与介の 愚かさを 
 誰が責めらりょう
  責めらりょう
  佐々木の仕打ちが ただ憎い  あわれ息子は水の底

 佐々木と聞けば笹までも  根絶やしにしたい 母の手で

  南無阿弥陀仏 唱えつつ  わが子を浄土の 旅へだす

  笹無山に 春はない

佐々木谷
藤戸合戦のとき、源氏の主力は乗出岩の東、山陽ハイツがある辺り
の高坪山に布陣した。盛綱の陣所もこの辺りにあったらしく、
いま
『佐々木谷』の名が残っている。(先生の資料から)

山というには可笑しいほどの小さな笹無山があった。笹が生えている。

笹無山
わが子を盛綱に殺された母は半狂乱になって、手当たり次第に
小山の笹をむしり取った。老母の執念からか、その後この小山には
笹が一本も生えなかったので笹無山と呼ばれるようになったという。
しかし、長い歳月が老母の恨みを忘れ去らせたのか、今は一面に笹が
生えている(先生の資料から)


笹山の 笹なき辺り 小春なぎ      令子

「浦の男は佐々木盛綱に浅瀬を教えなければ殺されずにすんだのに・・」
と言うと先生は
「それが戦争よ」と言われた。戦争は人格を変える。
口封じのために漁師を殺さなければ盛綱は先陣の功がた
てられない。宇治川の合戦で弟の四郎高綱が先陣の功をたてたので
三郎盛綱も先陣の功をたてたかった。四郎高綱も一番乗りをしたの
はフェアではなかった。佐々木兄弟は
功をたてる為ならば何でもするみたい!!

乗出岩
藤戸合戦のとき、浦人から浅瀬を教えられた佐々木盛綱がここから海に
乗出したと言われる所にある自然の岩畳である。またこの岩鼻から
少し上がった所には「盛綱鎮魂碑」がある。(先生の資料から)

先陣庵
旧粒江村「森」の集落の南側背後の山の上がり口にある西明院の
中にある。乗出岩から海を渡った盛綱が先陣の馬を乗り上げた所
とされている。先陣の功により頼朝から児島の地を与えられた盛綱は、
この地に入国したとき、先陣の功の記念のため、また源平両軍の
戦死者や浦の男の供養のために、ここに一寺を建て「先陣寺」と
名付けた。今は衰退して庵があるにすぎない(先生の資料から)

浦部家のお墓に行く。わたし達は悲運だった浦の男を想い、
手を合わせた。この間、浦の男の末裔と盛綱の子孫が対面
したと安原さんは言われた。
800年を越えた和解である。
そういう世の中になったのだ・・とみんな何となく納得した。

         激戦地の跡を通り鞭木跡に着く。

乗出岩から海に入った盛綱がここで馬を休め、持っていた鞭を
水底に挿した。その鞭は巨木に育った(先生の資料から)


源平戦 鞭木の里の冬の鷺        令子

浮洲岩跡
藤戸寺の西方の水田の中に「浮州岩」の石柱がある。浦の男が
盛綱に刺し殺された所である。謡曲「藤戸」ではわが子を沈めたの
はどこかと迫る母に、巡回にきた盛綱は「あれに見える浮州の岩の
少しこなたの水の深みに死骸を隠ししなり」と言っている。
もと大岩があったが、それは現在京都醍醐寺の三宝院の庭に置かれ
「藤戸石」と呼ばれている。(先生の資料から)

広々とした田んぼの中に、その石碑はひっそりと佇んでいた。

正保2年(1645)に建てられ、その文字は熊沢藩山が書いたものだという。
このあたりはその頃海だった。ガイドをしてくださった安原さんが子供の頃に
でもまだ沼だったといわれる。


   藤の戸の戦のあとや冬田道    

       浮州岩あらう涙の秋の野辺     令子

 「千石石」の別名

藤戸石は秀吉自慢の名石であったが、三宝院の座主義演は度々
聚楽第に出かけて秀吉の話し相手になり、この石を熟知していた。
ある時秀吉から義演に「千石を与えんか この藤戸石を与えんか。」
と話しかけたところ義演は即座に藤戸石を頂戴いたしたい」と答
え、
遂に三宝院の庭に移されるに至ったという。(安原さんの資料から) 

岡山からひかり466号の自由席で新大阪まで。禁煙席の車両はいっぱいで、
座れない。禁煙席で立っていくか、喫煙席ですわるかの2者択一をせま
られ、石原さんと私は喫煙席で仲良く座って新大阪まで帰った。

史跡の数々をゆっくりとバスでめぐることができてよかったと思う。

お天気にも恵まれ、歴史の深さを感じる旅であった。

「藤戸の合戦時の海底を歩き回ったなんて嘘みたいな話です。平家物語
では識り得ない諸々の見聞ができて充実した一日でした。」
旅行後に頂いた長田さんからメールである。

この歳になって古典文学の面白さにますますはまっていく
わたし達は幸せ。先生にあらためて感謝です。ありがとうございました。