古典を読む会
醍醐に平家物語の浮洲岩を 小野に小町をたずねる


   「古典を読む会」では、この春のアウティングは藤戸石の置かれている醍醐寺と

   小野小町ゆかりの随心院 をたずねることになりました。杉野先生はいつものよ

うに参考資料を作ってくださいました。 以下先生の解説文は青い文字

 
浮洲岩(藤戸石)

   過日、平成19年の秋の一日、私たちは岡山県藤戸町に平家物語の中の藤戸合戦
    
   の跡をたずねた。数々の遺跡は当時の源平合戦の熾烈さを無言のうちに語りかけ

   ていた。そこかしこと巡るうちに「浮洲岩」とある石柱を見た。浦の漁師が佐々木盛

   綱に刺し殺された場所を示すその石は、当時のものではなかった。もとの浮洲岩は

   現在、醍醐寺の三宝院の庭園に置かれて「藤戸石」と呼ばれて賞揚されている。ひ

   っそりと古えの戦を語り継ぐべき浮洲岩があろうことか、花の醍醐を彩るものになろ

   うとは。運命のいたずら。
    
    今回、花の季節の終わった醍醐寺で、今は「藤戸石」と名を変えた「浮洲岩」に対

   面して、私たちの藤戸合戦遺跡めぐりを全うしたいと思う

遍歴する石

   種々の記録や伝えによると、藤戸合戦の折、漁師の悲劇を目前に見たその石はその

   後幾人もの武将に好まれた。まず、広く世間に知られているところでは関白秀吉が聚

   楽第においた。
  
   その前は信長が15代将軍、足利義明のため造った二条第にあった。さらに、その前

   は細川官領家にあり、もうひとつ前は8代将軍義政に溺愛されたのだともいうが、これ

   ははっきりしない。

    このように藤戸の戦いという庶民にとってはやりきれない悲惨な場の石は、その後、

   覇者の石となって武将たちの間でもてはやされ、終には日本庭園第一の名石と謳わ

   世の賞賛を集めるに至った。まことにもって数奇な運命の石である。

  
わたしたちはJR山科駅に集まり、バスで醍醐寺に向かいました。

醍醐寺

真言宗醍醐派の総本山。山上・山下にわたり、上醍醐が874年(貞観16)創立され、

山麓に952年(天暦6)五重塔など伽藍が整備された。山岳道場らしい荘厳な雰囲気

が漂う。醍醐とは牛または羊の乳から精製した濃厚、甘美な液汁をいい、印度では薬

用にした。創立者の聖堂はこの醍醐の妙薬を、真言密教にたとえて、大いに教化に努

め忽ち上下の尊崇を得た。

その後は寺運隆昌を見たが、文明、応仁の戦禍で一山焼亡した。その後、秀吉、秀次

父子の庇護により諸堂再建され、徳川氏も庇護に努めたから寺観ようやく復旧した。

三宝院

醍醐寺塔頭の一つであるが、ある時期から一山の実権はこの院に帰することになっ

た。文明の戦の後、当院の僧正、義演は秀吉の庇護を得て諸堂を再建した。現在の

建物はその時のもので、公家の寝殿造と武家の書院造とを折衷した。

桃山時代の典型的住宅建築になっている。

表書院:泉殿は寝殿造の遺風を伝える。障壁画が見事。

庭園:慶長の醍醐の花見に秀吉が自ら設計したといわれ

     る。桃山式庭園で,このとき藤戸石を聚楽第から移し

     た。石は庭園の核心部に庭の主の風格を持って立つ

    緑っぽい地上1.8m。珍しい変輝緑岩というものだ

    そうだ。藤戸の戦さの陰惨な光景を想像しなければ

     ただの美麗な石であろう。(以上 先生の資料から)

庭園は実際に目にすると本当に絵に描いたような見事な日本庭園でありました。庭の

中心に位置している藤戸石に対面。藤戸に行ったとき偽の石をみたけれど、本物の

藤戸石は風格が違う。



「わたしは源平の藤戸合戦以来、数々の歴史を見てきたのよ。漁師が殺されたのは理不尽

な話だったけれど、佐々木盛綱の心がけが武士の鑑だったから、わたしは「覇者の石」とな

って歴代の名将たちに愛されてきたの。普通に観光に来る人たちは私の出自を知らない人

が多いけれど・・」という顔をして立っていた。ミステリアスな石



雨月茶屋で昼食。そのあとバスで随心院のある小野に向かう。

小野小町の遺跡

小野は醍醐の北「和名抄」にある「小野郷」に相当し、小野氏の栄えた所で、近くに氏寺

の遺跡も発見されている。小野は小野篁の孫にあたり、書家の小野道風は小町の従兄

にあたる。生年、没年ともに未詳。文屋康秀・僧正遍照らと交渉があった。仁明・文徳天

皇の時期、宮廷で活躍した女流歌人。采女ともいうが小野氏出自の女性という以上はわ

からない。30歳を過ぎた頃、宮廷を去って、ここ、小野の里に引きこもり、晩年を送った

と伝えられている。晩年についてはおちぶれて諸国を流浪した、という玉造小町の伝説

もある。何はともあれ六歌仙のひとりに数えられたこと、深草の少将の百夜通いの伝説

また、「花の色はうつりにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに」

となかなか味わい深い歌が百人一首に見られることなど、有名な女性である。小野の

随心院の中には、ある時期の小町を偲ばせるものが数多く残っている。(先生の資料から)

随心院

真言宗の大本山で世に「随心院門跡」または「小野御殿」といわれる。本堂は桃山時代の

建築で寝殿様式。内に諸仏を安置する。

小野井

小町が朝夕、鏡代わりに化粧した愛用の井戸と伝える。小野井・小野水ともいう。

文塚(小野塔)

本堂の裏。深草少将はじめ、当時の貴公子たちから寄せられた千束の文を埋めたところ。

塔は五輪石塔の水輪のみを寄せ集めてしるしとしている。

深草少将百夜通いの道

化粧井戸の東側にあり、深草から小野に通じる小道。秀吉が伏見在城のとき、訴訟ある

ものがこの道を通ると願いごとがかなわないといわれ、不吉として遂に廃道になったとか

榧の木

小町は深草の少将が通ってくる日数を榧の実で数え、少将の死後、その実を邸内に播

いた。その数はかつて、99本あったといわれ、今尚、庫裡の前や門前付近に若干残って

いる。(以上先生の資料から)

「深草から
ここまで
随分、遠距離やわねえ。」「通うのは大変やったでしょうね。」

「そりゃあ馬で来られたのよ。牛車だと目立つし・・」「少将は根気のいい人ねえ。セールス

マンに向いてる」 わたしたちは喧しく少将について語る。

随心院の本堂は1599年(慶長4)、桃山期の建築で寝殿造りの堂内には本尊や諸仏

が安置されていた。

小野小町文張地蔵尊像

多くの人から寄せられた文を下張りして作り、罪障消滅を願うとともに菩提を祈ったという

卒塔婆小町座像

小町の晩年の姿を写したもの。座法は古代の風習を伝えて珍しい像である。

小町の座像に対面した。この前にお会いした月心寺の百歳小町よりは可愛いが、若いとき

の小町とは随分違う。





「小町はただ 絶世の美女 というだけではないよ。頭がよくて歌もうまい。ひらめきも一際

優れていて、才覚があったのよ」とTさんの意見

先生は「小町は序の舞で (初めの老いぞ恋しき) と言っています。100歳になれば70歳

でも恋しいわねえ。後世になって、小町は歳をとったおばあさんの像ばかりつくられてる。あ

まり美しい人だったので嫉妬もあるのかしら。美女がいつまでも美女のままではおもしろくな

いし、美しければ美しいほど、その零落したすがたが人の心をひきつけるのねえ」と言われた。

能にあらわれた小町

小町を扱った能に草子洗小町、卒塔婆小町、通小町、鸚鵡小町、関寺小町の五曲あり、そ

れぞれ、小町の違った側面を描いていて面白い。その中、卒塔婆小町を紹介すると、100

歳の小町お婆ちゃんが疲れて卒塔婆に腰掛けていると、高野山から僧がきて、卒塔婆に腰

かけるとはけしからん、として問答になる。100歳の老婆は口論の末に勝つ。人間は煩悩の

塊だから悪いことをする。悪いことをすることで仏に救われる。親鸞の

「善人なお成仏す。いわんや悪人においておや」の思想である。彼女は100歳まで生きて

人生を見てきた。彼女に恋した深草の少将を99回通わせ、いわば男をためした。男の恋情

を弄んだ。その傲慢さ。そういう女性が老い衰えて物乞いになった、というものである。百歳

堂の小町を思い起こさせる。小町物のうち、例外は草子洗小町で、華やかなりし宮廷生活時

代の小町を髣髴させる。宮中の歌合わせで、小町の相手に決まった大伴黒主は小町を窮地

に陥れようと企むが失敗する。面目を失い自害しようとする黒主を小町が取り成し和解する。

王朝絵巻風の、唯一若く美しい才気ある小町を主人公にした曲である。(先生の資料から)


中庭には鮮やかなオレンジ色の花 のうぜんかづらが咲き乱れていた。